首塚・胴塚

2014年05月24日 首塚 首塚・胴塚の由来今を遡る事、434年前、歴史上戦国時代と言われる天文17年7月19日甲斐の武田信玄軍と松本林城主小笠原長時軍とが永井坂において交戦し数時間に及ぶ激戦の末、戦いは小笠原軍の破れ… 続きを読む 首塚・胴塚

笠原新三郎首塚

2014年05月03日 天文9(1540)年頃から甲斐武田氏の佐久侵入が本格的になり、佐久の地侍の大部分は同12~13年頃までにこれに降り、同15年には内山城も落ちて、残るは志賀城だけとなった。そのため同16年閏7月には… 続きを読む 笠原新三郎首塚

七人塚

2014年03月29日 戦国時代のお話です。武田氏と徳川氏に挟まれたこの地方の豪族奥平氏は、家の存続を計るためいろいろと苦労をしました。武田方についていた奥平氏は、一族の仙丸、おふう、虎之助等を武田方に人質として出してい… 続きを読む 七人塚

福田寺

2014年03月23日 武田信玄と福田寺武田信玄と当寺との関係については、卒去の地、埋葬の地を含めて、その真偽のほどは判然としないが、当寺に伝えられているところによると次のとおりである。「当寺は、かねてより信玄公の外護を… 続きを読む 福田寺

田峯内乱の首塚

2014年03月23日 城主菅沼定忠(小法師・新三郎・刑部小輔)は天正3(1575)年長篠合戦に敗れた武田勝頼を一旦休息させるため田峯城へ案内した。しかし留守中の将である叔父菅沼定直と次席家老今泉道善(孫右衛門)等は城門… 続きを読む 田峯内乱の首塚

信玄塚

2014年03月23日 信玄塚・宝篋印塔の由来信玄塚武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀4年・1573)4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の… 続きを読む 信玄塚

妙法寺

2014年03月22日 妙法寺縁起当寺は恵南地方唯一の日蓮宗に所属する寺院である。開創に関する寺伝によれば、岩村藩主丹羽氏定公(2代目)に一女多阿姫があった。加賀爪土佐守に嫁し、難産で苦しんだ時、江戸の法華検験者日輝上人… 続きを読む 妙法寺

希庵塚

2014年03月22日 高僧希庵禅師希庵禅師は室町時代末、快川国師とともに臨済(宗)二大徳(高僧)として名声を天下に馳せた高僧である。希庵は京都の人で建仁寺の月谷禅師に従って出家し、各地を巡って修業した。愚渓寺(可児郡御… 続きを読む 希庵塚

千本浜の首塚

2014年01月18日 戦国時代、沼津周辺では小田原北条氏と甲州武田氏の勢力争いが激しく、とくに天正8(1580)年の千本浜の合戦は激戦であった。明治33年、暴風雨で倒れた松の大木の下からたくさんの頭蓋骨が発見され、地元… 続きを読む 千本浜の首塚

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カテゴリー: 沼津市

源立寺

2014年01月18日 小田原の北条氏は、豊臣秀吉が天下を統一した時に臣下の礼をとらなかったことを理由に天正18(1590)年に攻撃を受けて落城し、悲劇的な末路をたどることになった。その当主(4代)氏政の墓が、本市場の南… 続きを読む 源立寺

胴塚

2014年01月04日 胴塚永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここか… 続きを読む 胴塚

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カテゴリー: 愛川町

首塚

2014年01月04日 首塚不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て… 続きを読む 首塚

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カテゴリー: 愛川町

法印の首塚

2014年01月04日 戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える甲斐の武田信玄は、諸将に大軍を引きつれ小田原に北条氏を攻めた後、相模川沿いに北上し、三増峠(愛川町と津久井町との境)を突破せんとする時、北条方… 続きを読む 法印の首塚

七人塚

2013年12月31日 森町 戦国夢街道パンフレット この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました… 続きを読む 七人塚

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カテゴリー: 森町

千人塚

2013年12月30日 天正9(1581)年3月高天神落城時の戦死者多数を埋葬した場所(棒に書かれた文章より) 2010年01月10日 天正9(1581)年3月高天神落城時の戦死者多数を埋葬した場所(棒に書かれた文章より… 続きを読む 千人塚

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カテゴリー: 掛川市

回看塚

2013年09月07日 回看塚(みかえりづか)天正10(1582)年3月2日、武田軍の信州高遠城は織田軍の猛攻撃により落城した。翌3日早朝、この報を受けた武田勝頼は在城わずか68日の新府韮崎城に火を放ち、夫人や子供、わず… 続きを読む 回看塚

小山田信茂の首塚

2013年09月01日 「ものがたり甲斐善光寺」によれば、武田勝頼、信勝父子が田野で滅亡した後、小山田信茂らは、織田軍の本陣となっていた甲斐善光寺に集められましたが、身の危険を感じた信茂は逃走して善光寺金堂の縁の下に隠れ… 続きを読む 小山田信茂の首塚

河尻塚

2013年09月01日 この地は織田信長の家臣河尻肥後守秀隆の首塚とも、また彼の屋敷跡とも伝えられている。織田信長が武田氏討伐の軍を起したとき(1582年)河尻秀隆は軍目付として活躍し、甲斐と信濃諏訪郡の領主となった。背… 続きを読む 河尻塚

信玄火葬塚

2013年09月01日 甲斐国主武田信玄公御墓所について天正元(1573)年4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波乱の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公はこれに従い、信玄公の… 続きを読む 信玄火葬塚

将軍塚

2013年08月01日 祭神は武田信玄公である。上洛の途次、病に犯され雄図空しく帰国の道中にて逝去された。信玄公の遺骸は、我等の先祖からの伝えによりますと密かに人跡未踏の土地へ運びこの土地(現在の横川)へ葬り給い、家臣原… 続きを読む 将軍塚