2007年10月28日 高坂弾正の名で知られるが、実際には香坂弾正忠虎綱、後に本性に戻って春日虎綱と称している。石和の大百姓春日大隈の子で、天文11(1542)年に信玄に見出されて近習となり、その後使い番を経て、天文21… 続きを読む 高坂弾正忠昌信屋敷跡
史跡一覧
真田弾正忠幸隆屋敷跡
2007年10月28日 真田氏は、信濃国小県郡を中心に発展した滋野一族の支流で、幸隆は名族海野氏の出身といわれる。実名は幸綱が正しい。天文10(1541)年に、信玄の父信虎に攻められ、海野棟綱らとともに上野国に亡命したが… 続きを読む 真田弾正忠幸隆屋敷跡
甘利備前守虎泰屋敷跡
2007年10月28日 武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していたとされる重臣。甘利氏は甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。本拠地は、甘利荘と呼ばれた地域で、そこに館(現在の韮崎市大輪… 続きを読む 甘利備前守虎泰屋敷跡
山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
2007年10月28日 昌景は、武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。弘治2(1556)年ごろには、武田信玄の側近および奉行として活躍している。永禄8(1565)年に、兄虎昌が義信事件に連座して処刑されると、信玄の命… 続きを読む 山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡
2007年10月28日 小畠虎盛は、遠江国の出身で、幼少の折に父日浄とともに武田家に仕え、永正15(1518)年に父死去により家督を相続し、信虎から騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄2代… 続きを読む 小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡
多田淡路守満頼屋敷跡
2007年10月28日 多田淡路守は、美濃の出身という。仮名は三八郎といい、略して多田三八と呼ばれることが多かった。足軽大将に任命され、信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所… 続きを読む 多田淡路守満頼屋敷跡
馬場美濃守信春屋敷跡
2007年10月28日 甲信国境の豪族教来石氏(武川衆)の出身で、天文15(1546)年に信玄に抜擢され、50騎を預けられて、馬場氏の名跡を継いだという。信玄の信濃経略で活躍し、天文19(1550)年に小笠原長時が没落す… 続きを読む 馬場美濃守信春屋敷跡
武田典厩信繁屋敷跡
2007年10月28日 信虎の次男(実は三男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は次郎(二郎)で、元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称した。この官途の唐名が典厩であり、左典厩とも呼ばれ… 続きを読む 武田典厩信繁屋敷跡
秋山伯耆守信友屋敷跡
2007年10月28日 秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。信友といわれるが、実名は虎繁が正しい。天文15(1546)年に侍大将に抜擢され、信玄の信濃伊那郡制圧に伴い、高遠城代を、次いで飯田城代を歴… 続きを読む 秋山伯耆守信友屋敷跡
飯富兵部少輔虎昌屋敷跡
2007年10月28日 武田家の譜代家老で、山県昌景の実兄。永正12(1515)年ごろ、家督を相続したが、享禄4(1531)年に信虎と対立し、御岳に今井・栗原氏らと立て籠もったこともある。まもなく武田氏に帰服し、信虎追放… 続きを読む 飯富兵部少輔虎昌屋敷跡
お聖道さま
2013年09月01日 ここは、武田信玄の二男竜宝(母は三條夫人)の墓と伝えられています。近在の人たちは古くからここを「おしょうどうさん」といって大切に保存してきました。竜宝は生まれつき目が不自由であったため、早くから仏… 続きを読む お聖道さま
川田館跡
2007年04月25日 川田館跡は、武田信玄の父信虎が永正16(1519)年につつじヶ崎(現在の武田神社一帯)に館を移すまで、甲斐国統治の中心であった。15世紀後半、信虎の祖父信昌がこの館を築いたといわれる(甲斐国志)が… 続きを読む 川田館跡
勝山城
2004年08月14日 勝山城は甲府の南に位置しており、武田信虎の時代に今川氏親との戦いの際に舞台となったところである。永正12(1515)年頃、椿城の大井氏が武田信虎に叛いて駿河の今川氏親がこれに呼応して配下の武将を甲… 続きを読む 勝山城
逍遥禅院
2005年09月11日 武田逍遥軒信綱公之祠 本堂の左奥に入ってすぐのところに武田信廉の祠がありました。住職と思われる方の話によれば、武田信廉は武田家が滅んだ後の織田・徳川軍による武田の残党狩りで殺されたため、墓は存在し… 続きを読む 逍遥禅院
攀桂寺
2005年09月11日 曹洞宗遊月山攀桂寺当山は開山宗祖道元14世法孫道威元亀2年5月跡部伊賀守信秋の創立で、はじめ穀蔵寺と称したが後に信秋の舎号攀桂斎をとって攀桂寺と改めた。跡部氏は甲斐源氏小笠原長清の長男伴野六郎時長… 続きを読む 攀桂寺
飯田河原古戦場慰霊碑
2013年09月01日 大永元(1521)年駿河今川家の臣福島正成は1万5千の大軍をもって甲斐に進入。9月16日西郡富田城を落としいれ、さらに北上の形勢を示した。武田信虎公は大井夫人を積翠寺要害山城に避難させ、2千の兵を… 続きを読む 飯田河原古戦場慰霊碑
信玄堤(荒川)
2005年01月09日 信玄堤案内板 信玄堤とは、16世紀の武田信虎、信玄の治世下に築造されたと伝えられる堤防のことです。釜無川と御勅使川の合流点の竜王町(現在甲斐市)高岩付近のものが有名であるが、荒川でも甲府市山宮町付… 続きを読む 信玄堤(荒川)
弥三郎権現
2004年10月24日 弥三郎権現のお話しこの羅漢寺山弥三郎岳の名称は…その昔、甲斐国、御岳(今の昇仙峡)にある名刹羅漢寺に弥三郎という酒造りの名人が寺男として住んでいました。この弥三郎は、武田家の勝ち戦の祝い酒などを造… 続きを読む 弥三郎権現
金桜神社
2014年07月20日 虫切鈴の由来武田信玄公の弟信繁は幼少の時癇の虫強く母の信虎夫人は深くこれを憂い、この鈴に願をこめて武田氏代々崇敬の厚い金桜神社に祈願しました。即ちたちどころに癇の虫おさまり、その後信繁は立派に成長… 続きを読む 金桜神社
能成寺
2013年09月01日 定林寺能成寺は、臨済宗妙心寺派に属し、甲府五山の一つに数えられている名刹です。開基は、甲斐の守護武田信守、開山は名僧業海本浄で南北朝時代に小石和筋八代村(現在の八代町)に創建されたと言われ、今は八… 続きを読む 能成寺