2015年10月12日 一の曲輪(曲輪Ⅰ) 松岡城は天竜川の河岸段丘の先端部に築かれた平山城である。北を間ヶ沢、南を銚子ヶ洞の谷によって区切られ、東は段丘下段の平地と、その先の天竜川に臨み、西方のみが平地につながっている… 続きを読む 松岡城
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松尾城
2015年10月12日 本曲輪 松尾城址案内図 松尾城は天竜川の河岸段丘を利用して構築された連郭式平山城である。遺構の残存状況は良好である。下伊那地方の中世城郭のモデル的性格をもつ城郭の一つといえる。東方は天竜川に臨み、… 続きを読む 松尾城
丸子城
2014年12月21日 丸子城は室町記の初めから、戦国動乱の終わりまで約150年間、今から400~550年前にかけての中世の山城で、京都と鎌倉を結ぶ東海道の大動脈だったこの地区を押え駿府の西の防衛拠点としての要城でした。… 続きを読む 丸子城
蒲原城
2014年12月07日 本郭南曲輪 蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期頃か。築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。文献上には特定の… 続きを読む 蒲原城
山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
2014年08月16日 信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小… 続きを読む 山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
竹広激戦地
2014年08月16日 設楽原の戦天正3(1575)年5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500とともによくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、織田、徳川の援軍を得… 続きを読む 竹広激戦地
大通寺
2014年08月15日 本堂 大通寺と盃井戸達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。天正3(1575)年の長篠の戦… 続きを読む 大通寺
天沢寺
2014年07月20日 天沢寺は文明4年亀沢郷の地頭飯富氏が鷹岳宗俊禅師を開山に請じて開基した禅刹で北岳禅林の名で知られている。開基檀那飯富氏は逸見光長の子飯富宗李を祖とする甲斐源氏で子孫は武田家の重臣として亀沢、西八幡… 続きを読む 天沢寺
明知城
2014年03月22日 明知城絵図 万ヶ洞天神神社の由来九州の大宰府において延喜3年2月25日59歳で亡くなられた、菅原道真公をお祭りしてあります。道真公墳墓の近くに建立された、安楽寺が大宰府天満宮の起源で、やがて京都北… 続きを読む 明知城
志田峠
2014年01月04日 志田峠志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12(1569)年… 続きを読む 志田峠
光源院
2013年01月04日 開創以来四百五十有余年の法城として、今にその伝統を伝えている萬松山光源院は、山梨市永昌院開基武田信昌公五世敬翁性遵禅師によって享禄元(1528)年に開かれ、新羅三郎義光公の後裔甲斐源氏逸見若狭守義… 続きを読む 光源院
日尾城
2013年01月04日 史蹟日尾城跡之碑 日尾城は小鹿野町大字日尾と同大字飯田との境にある典型的な山城で、秩父札所31番鷲屈山観音院の岩崖に続く所に要害を構えていた。東が大手で、東西に長く南北は狭い。南と西は切り立った断… 続きを読む 日尾城
田中城
2012年02月19日 田中城本丸跡田中城は同心円形に四重の堀と土塁で造られていたが、本丸は四角で480坪(1580㎡)と小さく、本丸内には御殿やお亭のみで天守閣のような建物はなかった。(看板資料より) 田中城案内図 田… 続きを読む 田中城
千見城
2009年05月03日 千見城攻防の詳細(戦国時代)■天文21(1551)年信玄の臣山県昌景の軍勢に攻められ激戦の末、主将大日方源吾長辰は討死にし、以降大日方氏は武田に服属する。■弘治元(1555)年武田晴信は、地侍大日… 続きを読む 千見城
平倉城
2009年05月03日 平倉城には以前行ったことがあるのですが、夕方だったこともあり秋葉様のところまで行ってその先の道が分からなくなってしまったので勇気を出して撤退していたのです。いつかは一番上まで登りたいと思っていまし… 続きを読む 平倉城
塩島城
2009年05月03日 史跡塩島城址戦国時代、信州の地は上杉・武田両氏の激突する舞台となったが、安曇地方も両勢力の争いの余波を受けて戦乱が絶えなかった。塩島城は、姫川を挟んで三方が断崖をなす要害の地を占め、戦略的には海陸… 続きを読む 塩島城
山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
2007年10月28日 昌景は、武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。弘治2(1556)年ごろには、武田信玄の側近および奉行として活躍している。永禄8(1565)年に、兄虎昌が義信事件に連座して処刑されると、信玄の命… 続きを読む 山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
伝武田諸将訣盃ノ池
2006年05月06日 ご夫人がやかんの水を冷しに来ていたのでお話を聞くことができました。伝武田諸将訣盃ノ池とは、設楽原での決戦の前に武田方の武将である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の4人が最後の盃を交わしたとこ… 続きを読む 伝武田諸将訣盃ノ池
桜洞城
2006年05月04日 桜洞城主三木良親は、広瀬高堂城の広瀬宗城と対立していた。高原諏訪城の江馬時盛は広瀬宗城とともに武田に援助を乞うた。永禄7(1564)年1月、武田軍は山県昌景を総大将としてに飛騨南部の桜洞城に迫り、… 続きを読む 桜洞城
尾崎城
2006年05月04日 平成6年から3ヵ年にわたり行なわれた尾崎城の発掘結果は、全国的にも大きな関心を集めた。江馬氏下館跡の発掘成果とあわせて、京や鎌倉から遠く離れた中世の飛騨に、想像を越える遺物が出てきた。江馬氏下館跡… 続きを読む 尾崎城
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