2017年06月11日 仁科五郎盛信の家臣諏訪勝右衛門頼清の妻で、天正10年高遠城の戦いにおいて、夫勝右衛門が討ち死にした後、仇討ちせんと、敵中に切り込んだ。紺糸の腹巻きに丈なす黒髪を乱して三尺ばかりの長刀を持って、敵2… 続きを読む 二郎山(諏訪はな祠)
史跡の種類: 祠
三郎山(渡辺金太夫祠)
2017年06月11日 渡辺金太夫は名を照といった。遠州高天神城衆として徳川家康に属していたが、家康が天正2年武田氏との抗戦に敗れてから武田勝頼の麾下に加えられた。元亀元(1570)年には姉川の合戦で、一番槍の功名を立て… 続きを読む 三郎山(渡辺金太夫祠)
四郎山(小山田備中祠)
2017年06月11日 小山田昌辰は武田信玄の侍大将であった備中守の子で父と同じく備中守と呼ばれた。初め武田信玄に仕えたが、信玄没後は勝頼に仕えた。天正10年織田信忠が高遠城を攻めた時は高遠城の副将として仁科五郎盛信にそ… 続きを読む 四郎山(小山田備中祠)
五郎山(仁科五郎盛信祠)
2017年06月11日 天正10(1582)年、織田信忠は大軍を率いて武田氏討伐の兵を進めた。武田信玄の五男仁科五郎盛信は、兄勝頼の命により、高遠城主となってこれを迎え撃った。戦いは3月2日早朝より数時間に及び熾烈を極め… 続きを読む 五郎山(仁科五郎盛信祠)
信玄祖師堂跡
2014年08月16日 め「冥福を祈る武将の慰霊碑」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 想像を越えたおびただしい戦死者の姿は、戦いのむごたらしさと共に人の命のはかなさを、無言のうちに人々に語りかけるのであった。戦い… 続きを読む 信玄祖師堂跡
更科姫館跡
2013年09月07日 更科姫を偲んで北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。… 続きを読む 更科姫館跡
大藪の彼岸桜
2008年05月04日 武田勝頼が土佐に落ち延びて大崎玄蕃に名を変えたという伝説が残っています。大藪の彼岸桜はその大崎玄蕃によって植えられたと言われているそうです。大藪の彼岸桜はまたの名をひょうたん桜ともいうそうです。大… 続きを読む 大藪の彼岸桜
望月右近太夫義勝公祭祠
2008年03月16日 望月峠の近くに望月右近太夫義勝公の祠があるとのことで今回立ち寄りました。最初は豊根村役場に寄って望月峠の祠について聞いてみたのですが、それは教育委員会で聞いて欲しいが今日は日曜日なので誰もいないと… 続きを読む 望月右近太夫義勝公祭祠
秋月神社
2007年11月18日 秋月院のご住職から秋山将監神社なるものの存在を教えてもらいました。大体の行き方も教えてもらいましたがなかなか見つけることができませんでした。神社があったので立ち寄ってみるとそこは諏訪神社でした。宮… 続きを読む 秋月神社
大鋒寺
2005年09月24日 真田昌幸の長男である真田信之の霊屋があるとのことで寄ってみました。場所は山本勘助の墓のすぐ近くでした。千曲川の堤防沿いの道を走っていくと見つけることができますが、道が狭くてなかなか現地にたどり着け… 続きを読む 大鋒寺
逍遥禅院
2005年09月11日 武田逍遥軒信綱公之祠 本堂の左奥に入ってすぐのところに武田信廉の祠がありました。住職と思われる方の話によれば、武田信廉は武田家が滅んだ後の織田・徳川軍による武田の残党狩りで殺されたため、墓は存在し… 続きを読む 逍遥禅院
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