2014年11月16日 善光寺街道随一の名所。天正8(1580)年に青柳伊勢守頼長により切り開かれた。元禄11(1698)年には「長さ13間5尺、横8尺5寸、高さ1丈」と記され、その後享保元(1716)年、明和6(176… 続きを読む 切通し
史跡の種類: その他
姫宮跡の碑
2014年11月08日 天文22(1553)年に葛尾城が自落した際、逃れた奥方がこの地で自害したと伝わります。寛延3(1750)年に建立された石祠が明治30年頃に自在神社奥社に移転されたため、大正13年に建碑されました。… 続きを読む 姫宮跡の碑
笄の渡し
2014年11月08日 時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22(1553)年4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れか別かれ城を後にしたので… 続きを読む 笄の渡し
信玄道
2014年09月28日 天文17(1548)年2月、甲斐(現在の山梨)を出発した武田晴信(後の信玄)は大門峠、砂原峠を越え、倉升山のすその御陣ヶ入畑に陣を敷いた。いっぽう村上義清は天白山のふもとの塩田川原に、産川を前にし… 続きを読む 信玄道
猿橋
2014年09月14日 名勝 猿橋 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよし、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは「しらはた… 続きを読む 猿橋
広瀬の渡し(鳥居勝商上陸地)
2014年08月16日 き「奇襲隊広瀬をわたりで鳶ヶ巣へ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 広瀬の渡は、酒井忠次率いる軍隊が鳶ヶ巣砦を奇襲すべく進む途中、この広瀬付近で豊川を渡って行ったそうです。また鳥居強右衛門… 続きを読む 広瀬の渡し(鳥居勝商上陸地)
猿橋
2014年08月15日
信長賞詞地(コロミツ坂)
2014年08月15日 ま「守りぬく城主の貞昌二十一」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、長篠・設楽原合戦が終わった後、有海のコロミチ(コロミツ)坂において、長篠城を… 続きを読む 信長賞詞地(コロミツ坂)
遠山一杯清水
2014年03月23日 上村合戦で負けた門野高助、門野磯之助、門野角八、串原右馬助らが再び戦おうとしたが、喉が渇き戦うことができない。何処にも水はない、思いあまって近くの石に槍を突き刺したら不思議にも清水が湧き出た。その… 続きを読む 遠山一杯清水
道善処刑の地(道善畑)
2014年03月23日 長篠合戦に負け逃げ帰ってきた城主菅沼定忠が、留守居の家老今泉道善などの謀反で帰城できなかったことから、定忠は翌天正4(1576)年7月14日に夜討ちをかけ、一族郎党96人を捕らえてのち、首謀者・道… 続きを読む 道善処刑の地(道善畑)
首検分の処
2014年03月23日 天正10年春3月14日織田信長 光秀を従え此の地に出陣武田勝頼・信勝父子の首を検分する。(石碑に記載された文章より) 2004年9月20日 天正10年春3月14日織田信長 光秀を従え此の地に出陣武… 続きを読む 首検分の処
山本勘助誕生地
2014年01月18日 「山本勘助誕生地」碑武田信玄に仕えた軍師山本勘助は、山本の吉野に生まれた人であるといわれ、同家の門前に「山本勘助誕生地」の碑が建てられた。吉野家は南北朝時代に当地に居住したといわれる旧家で、勘助は… 続きを読む 山本勘助誕生地
首洗池
2014年01月04日 寸沢嵐首洗池の言い伝え武田信玄は、永禄12年8月総勢2万の軍勢を率いて甲府を出発。信州佐久を経て碓氷峠を越え、長躯して関東諸城を攻略し、遂に北条氏康の居城小田原城を攻撃して目的を達した。甲州への帰… 続きを読む 首洗池
三増峠
2014年01月04日 三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越え、または三増通りの名がある。中世の頃は、信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉に向う古街道であった。永禄12(1569)年北条・武田両軍が戦っ… 続きを読む 三増峠
志田峠
2014年01月04日 志田峠志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12(1569)年… 続きを読む 志田峠
涙の森
2013年09月07日 武田勝頼は織田軍の追撃に堪がたく、天正10(1582)年3月3日、自ら城に火を放ち家臣小山田信茂の待つ、郡内の岩殿城さして落ちのびて行くときここで赤々と火の手の揚る新府城を眺め、戦国の世のきびしさ… 続きを読む 涙の森
赤子ヶ淵
2013年08月01日 天正10(1582)年2月、織田信長は、宿敵甲斐の武田氏を討たんとして甲信攻略の兵を進めた。徳川家康との連合した大軍を進めて伊那谷へと侵入して来た。伊那の諸将中、南端に守備する吉岡城の下条氏、松尾… 続きを読む 赤子ヶ淵
上杉謙信槍尻之泉
2013年07月21日 永禄4(1561)年川中島合戦の時、妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折、麓の会津比売神社(神社境内には「謙信鞍掛の松」がある)や岩野村にあった聖観音菩薩像(伝行基作… 続きを読む 上杉謙信槍尻之泉
首洗池
2013年07月07日 首洗い池は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、首や刀や武具などの血を洗い落としたといわれている。(東三河の史跡めぐりより) 国道151号線が古戦場を破壊してしまった。家康本陣から見ると山がえぐり取られてい… 続きを読む 首洗池
太刀洗の池
2013年01月27日 太刀洗いの池は、この南10m位のところにあった。このあたり一帯は藪におおわれ、約50平方メートルほどの池であった。徳川家康の正室は今川義元の家臣関口刑部少輔義慶の娘で、岡崎の山にちなんで築山御前と… 続きを読む 太刀洗の池
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