2014年08月16日 甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年… 続きを読む 内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)
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大通寺
2014年08月15日 本堂 大通寺と盃井戸達磨山大通寺は応永18(1411)年の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。天正3(1575)年の長篠の戦… 続きを読む 大通寺
保渡田城
2014年08月03日 保渡田城址は、箕輪城址の南東約3キロメートルの位置にあり、標高140メートル内外の平坦地にある。高台の上にあるのでないから目立たない。行政区画は群馬郡群馬町保渡田である(現在は高崎市)。空掘りは南… 続きを読む 保渡田城
内藤塚
2014年08月03日 善龍寺の内藤塚永禄9(1566)年箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理之亮昌豊に領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建に当らせた。昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に… 続きを読む 内藤塚
内藤修理亮昌豊屋敷跡
2007年10月28日 武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6(1563)年ごろ、信濃国深志城(現在… 続きを読む 内藤修理亮昌豊屋敷跡
伝武田諸将訣盃ノ池
2006年05月06日 ご夫人がやかんの水を冷しに来ていたのでお話を聞くことができました。伝武田諸将訣盃ノ池とは、設楽原での決戦の前に武田方の武将である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の4人が最後の盃を交わしたとこ… 続きを読む 伝武田諸将訣盃ノ池
石倉城
2005年05月05日 石倉城鳥瞰図 石倉城は文明17(1485)年上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって8年後(1477)のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左… 続きを読む 石倉城
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