小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡

2007年10月28日 小畠虎盛は、遠江国の出身で、幼少の折に父日浄とともに武田家に仕え、永正15(1518)年に父死去により家督を相続し、信虎から騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄2代… 続きを読む 小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡

武田典厩信繁屋敷跡

2007年10月28日 信虎の次男(実は三男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は次郎(二郎)で、元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称した。この官途の唐名が典厩であり、左典厩とも呼ばれ… 続きを読む 武田典厩信繁屋敷跡

古峰神社

2007年05月20日 清野氏の館跡とのことで今回立ち寄ってみました。妻女山への入り口のあたりかと思って行ったのですが私の勘違いで妻女山への道は別のところでした。途中何度か場所を尋ねながら行きましたが皆親切に教えてくれま… 続きを読む 古峰神社

大堀館跡

2007年05月20日 武田方は善光寺別当栗田鶴寿を味方に引き入れることに成功し、旭山城に篭らせて鉄砲300丁を送り込んだといわれています。上杉方は旭山城に牽制され犀川を渡ることができず本陣を犀川北岸におきます。一方、武… 続きを読む 大堀館跡

川田館跡

2007年04月25日 川田館跡は、武田信玄の父信虎が永正16(1519)年につつじヶ崎(現在の武田神社一帯)に館を移すまで、甲斐国統治の中心であった。15世紀後半、信虎の祖父信昌がこの館を築いたといわれる(甲斐国志)が… 続きを読む 川田館跡

天正寺

2007年03月11日 天正10年仁科盛信公は高遠城にて戦没した。民衆は城主を慕い城址に寺を建て供養す。明治5年廃仏棄却により廃寺。同5年永平寺住職を迎えて再興、天正寺となる。(石碑記載文章参考) 天正寺山門 この薬医門… 続きを読む 天正寺

山本勘助屋敷墓

2006年12月03日 山本勘助屋敷跡の案内図 事前の調査によると、須玉インターチェンジを降りて北のほうに向かっていくと高根クラインガルテンの北のあたりに山本勘助の墓があるとのことでしたので今回立ち寄ることにしました。長… 続きを読む 山本勘助屋敷墓

於曽屋敷

2006年03月12日 山梨県指定県文化財史跡 於曽屋敷俗に土手屋敷と称され、文安年代世紀1444年から1449年の武田系図によると、加賀美遠光の子四郎経光が於曽氏を名乗り、即ち、ここに居館を構え於曽郷一帯を領有していた… 続きを読む 於曽屋敷

武田氏館

2005年01月22日 平安時代末に、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光は、常陸国へ進出を図ったが、那珂川以南の地がすでに常陸平氏の支配下にあったため、長男の義業を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、三男義清を那賀郡武田郷(勝田市武… 続きを読む 武田氏館

中津森館跡

2004年12月26日 桂林寺にて中津森館の場所を尋ねたところ、桂林寺の駐車場から見渡して鉄塔の先のところがちょうど中津森館跡だったといわれているのだそうです。甲斐国志によれば「用津院の東にあり、里人は今も御屋敷と呼ぶ、… 続きを読む 中津森館跡