2017年04月08日 わに塚の桜 わに塚甲斐国志に「芝地十五間に十間、塚の形神前にかかる鰐口に似たり。後の人因りて名付けたるか。古墳なることを知りぬべし」とあり、土地の口碑によれば日本武尊の王子武田王が、諏訪神社の南西… 続きを読む わに塚
史跡の種類: 塚
センボウ塚
2016年12月18日 池袋の馬冷場と呼ばれる池は、花鳥屋合戦の時に馬を冷した場所と伝えられている。池袋には花鳥屋合戦についての口碑が他にも残存し、馬冷場付近のセンボウ塚(センブ塚ともいう)はこの戦いで死んだ者の塚で、千… 続きを読む センボウ塚
九ツ塚跡
2016年12月18日 九ツ塚は、瀬沢合戦の戦死者を葬ったものと伝えられる。瀬沢合戦とは『甲陽軍鑑』によれば、およそ次のような合戦のことである。天文11(1542)年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武… 続きを読む 九ツ塚跡
仁科神社(森城・仁科城)
2016年10月06日 森城森城は大町市平の森集落の北部にある。北に木崎湖、西に小熊山を控えた要害の地に位置している。古代からこの地方に勢力を張っていた信濃の名族仁科氏の北方の拠点であった。築城年代は明らかではないが、森… 続きを読む 仁科神社(森城・仁科城)
霊山寺
2016年05月01日 花岡平と霊山寺花岡平には善光寺縁起書や信濃砂々礼石などの古文書によると、今から1300年ほど前、善光寺如来が安置されていました。後に参詣人の便の為に現在の場所に移されました。霊山寺は上水内郡信濃町… 続きを読む 霊山寺
建仁寺
2016年02月21日 安国寺恵瓊首塚 安国寺恵瓊は天文7(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文10(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時4歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。以… 続きを読む 建仁寺
平賀源心胴塚
2015年06月28日 歴史及び伝説海ノ口城主平賀源心成頼は天文5年12月28日に武田信玄の奇襲にあい戦死した。不落を誇り武田氏をなやました海ノ口城は信玄16才の初陣の手柄により遂に落城し源心の遺骸がこの場所に埋められて… 続きを読む 平賀源心胴塚
千人塚
2015年05月03日 天文12(1543)年、武田晴信(信玄)が長窪城(古町北古屋)を攻略すると、小県・佐久地方の土豪らは、長窪城の奪還を目指して腰越村(上田市腰越)に結集し、深山を経て進撃しました。一方、これを知った… 続きを読む 千人塚
武田信繁首塚
2015年05月03日 武田信繁の墓碑由来について永禄4年9月の川中島合戦は、信玄対謙信の最大の戦いで両軍とも有名な武将を多く失っている。信玄方の副大将であった信繁もこの激戦において戦死した。最後まで信繁のそばで奮戦した… 続きを読む 武田信繁首塚
簗瀬八幡平の首塚
2014年11月23日 昭和6年に近くの小学生により古墳の墳丘中に多数の人の頭骨が埋められているのが発見された。その後昭和27年に東京大学人類学教室の鈴木教授による発掘調査が行われた。調査により埋められた時期は古墳時代以… 続きを読む 簗瀬八幡平の首塚
広田寺
2014年11月16日 会田塚と虚空蔵山城 会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骸の代わりに埋められたと言われている。会田氏は天正10(1582)年10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住… 続きを読む 広田寺
家康物見塚
2014年08月16日 「長篠役設楽原決戦場」の碑 ひ「日は悲し、一五七五ぞと武田七九」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 天正3(1575)年5月21日は設楽原決戦に日であるが、現代風の陽暦に換算すると7月9日に… 続きを読む 家康物見塚
やすら姫の塚
2014年08月15日 愛知県鳳来町長篠、飯田線長篠城駅の東、前野という所に、やすら姫の塚がある。この塚の主、やすら姫は、長篠戦争の時の由緒ある落人の娘であると言い伝えられていた。ある日の暮れ方、塚の近くの家へ、この辺で… 続きを読む やすら姫の塚
七人塚
2014年08月15日 愛知県鳳来町池場に七人塚と呼ばれる墓がある。長篠合戦の時、武田方の侍七人がやっとのことでここまで落ち延びて来た。これを見た百姓達が、竹槍でこの七人を殺してしまい、ここに埋めたので「七人塚」と呼ぶよ… 続きを読む 七人塚
蟻塚
2014年08月15日 史跡 蟻塚<所在地>鳳来町長篠字広面30番地<由来>長篠の戦いの戦死者を葬った所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し、蟻を封じたと伝えられている。<大き… 続きを読む 蟻塚
内藤塚
2014年08月03日 善龍寺の内藤塚永禄9(1566)年箕輪城落城後、武田信玄は重臣である内藤修理之亮昌豊に領有一帯の統治を命じ戦災で焼失した善龍寺を満行山と改号させ再建に当らせた。昌豊は後に武田勝頼に従い、長篠の戦に… 続きを読む 内藤塚
板額塚
2014年07月12日 板額塚由来境川村小黒坂小字柳原のこの地は古くより板額塚と口伝されてきたところである。両側の里道は板額坂と呼ばれている古道である。この板額塚は浅利与一義成の妻板(坂)額の塚と言われている。板額女は鎌… 続きを読む 板額塚
芍薬塚(伝・武田勝頼遺児の墓)
2014年07月12日 天正10(1582)年3月武田勝頼は新府城から岩殿山目指して落ちていった。この時武田の臣渡辺加兵衛久郡は主君勝頼の命により一族を率い、ひそかに2歳になる幼主(男子)を自分の在所である鎮目村にかくま… 続きを読む 芍薬塚(伝・武田勝頼遺児の墓)
耳塚神社
2014年05月24日 伝説耳塚様と呼ばれ昔は耳の病気の直ることを祈った。桔梗ヶ原の戦いとか安曇族王に関係ありとも言われる。明治29年先祖が野ざらしになっていた塚に祠を建て2本の剣を御神体として祀った。耳の形に似た素焼き… 続きを読む 耳塚神社
平出一里塚(平出の乳松)
2014年05月24日 一里塚は、慶長9(1604)年より徳川秀忠の命により各街道に築かれ同12年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中仙道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備… 続きを読む 平出一里塚(平出の乳松)
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