2016年12月18日 瀬沢合戦とは、『甲陽軍鑑』によればおよそ次のような合戦のことである。天文11(1542)年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと合戦し、甲信境の瀬沢に陣取… 続きを読む 瀬沢合戦跡
史跡の種類: 古戦場
川中島古戦場
2016年04月29日 八幡社本殿 八幡社御由緒祭神の誉田別尊は第15代応神天皇の諱で神功皇后を母とし在位41年に亘り大陸の文化を積極的に取り入られ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬す… 続きを読む 川中島古戦場
安居神社
2015年02月28日 安居神社由緒略記少彦明神を奉祀したのは古文書が散逸したので現在は詳かではないが、非常に古い時代の事であると伝えられている。この神は医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として、その霊験はまこと… 続きを読む 安居神社
茶臼山
2015年02月28日 茶臼山歴史について慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は63才で死去。死の直前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば大物大臣である。さらに五奉行に石田三成… 続きを読む 茶臼山
金八崖
2015年02月07日 三方原合戦の時、犀ヶ崖の裏に隠れて話題に上がらなかった金八崖にも、次のような情景が語り伝えられている。頼みの綱の織田の援軍は敗散し、家康軍は武田軍の攻撃を前後から受け進退きわまっていた。この時槍の… 続きを読む 金八崖
鳥居畑古戦場
2014年12月27日 天正10(1582)年3月11日、武田勝頼の一行を追撃するために、門井沢や不動沢の駒飼口から攻め寄せる織田・徳川の先鋒隊川尻・滝川の軍勢4,000に対し、武田勢は秋山紀伊守・阿部加賀守ら100人に… 続きを読む 鳥居畑古戦場
姫ヶ淵
2014年12月27日 姫ヶ淵の由来天正10(1582)年3月11日武田勝頼公一族は、織田、徳川の連合軍の攻撃を受け激戦の末家臣と共に悲惨な最期をとげ、新羅三郎義光以来甲斐の守護として連綿と続いた甲斐源氏はその歴史を閉じ… 続きを読む 姫ヶ淵
土屋惣蔵片手切
2014年12月27日 土屋惣蔵昌恒(弘治2~天正10)(1556~1582)は金丸虎義の第5子、15歳の時に土屋備前の養子となり土屋姓を名乗る。長篠の役で義父と養兄の戦死に逢い、敵陣に切り込もうとしたが勝頼に制止されて… 続きを読む 土屋惣蔵片手切
四郎作古戦場
2014年12月27日 四郎作古戦場小宮山内膳友晴(友信)は武田家の重臣小宮山丹後守昌友の長男として出仕し、御使番十二人衆の一人として活躍していたが、奸言によって勝頼の勘気を蒙り幽閉の身となった。天正10(1582)年3… 続きを読む 四郎作古戦場
薩埵峠
2014年12月07日 薩埵山合戦場古来ここでは二度の大合戦があった。まず観応2(1351)年室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直… 続きを読む 薩埵峠
石久摩神社(上田原古戦場碑)
2014年09月28日 天文17(1548)年旧暦2月、信濃攻略を進めていた武田信玄と、坂城町の葛尾城を本拠とする村上義清が武力衝突したのが上田原合戦です。信玄は南東にある倉升山、義清は北西にある天白山の麓にそれぞれ陣を… 続きを読む 石久摩神社(上田原古戦場碑)
猿橋
2014年09月14日 名勝 猿橋 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよし、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは「しらはた… 続きを読む 猿橋
織田信長本陣・極楽寺跡
2014年08月16日 ゑ「絵図ひらき軍議かさねし極楽寺」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) て「手振りよくおどる酒井のえびす舞」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 三州長篠合戦記によれば、合戦直前の織田・徳… 続きを読む 織田信長本陣・極楽寺跡
甲田
2014年08月16日 長篠合戦余話によると、設楽原合戦で武田方の敗色が濃くなり、側近や馬場信房らに退却を勧められ、とうとう武田勝頼も退却を決意し、武田家重代の諏訪法性の甲を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせた。伝右衛門は敵の… 続きを読む 甲田
柳田前激戦地
2014年08月16日 ぬ「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、合戦当時連吾川周辺は水田や泥深い沼田であり既に田植えが終わっており一面は水がたたえら… 続きを読む 柳田前激戦地
丸山攻防戦跡(先佐久間信盛後馬場信房陣地)
2014年08月16日 丸山と大宮前激戦地このあたりは、設楽原決戦場のほぼ北端に位置し大宮前激戦地とよばれている。ここ丸山は、はじめ織田軍の佐久間信盛が陣を敷いたが、後、武田軍の馬場美濃守がこれを攻め占拠した。(看板資料… 続きを読む 丸山攻防戦跡(先佐久間信盛後馬場信房陣地)
大宮前激戦地
2014年08月16日 大宮前激戦地は武田軍右翼の部隊が激戦を繰り広げたところと思われます。長篠日記によると、武田軍右翼には、先陣が馬場美濃守信房、続いて真田源太左衛門信綱と弟の真田昌輝、第3陣が土屋昌次、第4陣が穴山信… 続きを読む 大宮前激戦地
土屋右衛門尉昌次戦死之地
2014年08月16日 再現の馬防柵内に、東京の子爵土屋正直氏は、石標の土地を買い求めて、碑高165センチ、幅21センチの「土屋右衛門尉昌次戦死之地」碑陰「大正6年6月建之」を建立された。この碑は八束穂の史跡「忠誠碑」と… 続きを読む 土屋右衛門尉昌次戦死之地
竹広激戦地
2014年08月16日 設楽原の戦天正3(1575)年5月8日、武田勝頼は1万5千の兵を率いて長篠城をとり囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500とともによくこれを防ぎ、14日、鳥居勝商の決死的な脱出により、織田、徳川の援軍を得… 続きを読む 竹広激戦地
勝楽寺前激戦地
2014年08月16日 京「京めざす武田の雄図今悲し」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 2003年10月12日 京「京めざす武田の雄図今悲し」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
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