2005年07月03日 祖父貞久は、長男貞宗に家督を譲り、吉野本家の近くの石の宮に次男貞幸を連れて隠居したといわれています。ここは勘助が子供の頃遊んだ「勘助坂」と言い伝えられている急坂であります。竹馬に乗った勘助が近所の… 続きを読む 勘助坂
史跡の種類: その他
旧見付学校
2005年01月30日 「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治8(1875)年落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は4階建てでしたが、明治16年に増築されて今の5階建てとなりました。記録によると明治1… 続きを読む 旧見付学校
梅ヶ島温泉
2004年12月19日 梅ヶ島温泉のこと梅ヶ島温泉の発見は約1300年前にさかのぼると伝えられている。昔からこの湯は「黄金の湯」と呼ばれていたが、これは近くの山から産出された砂金を朝廷に献上し天皇から、金に関係の深い湯で… 続きを読む 梅ヶ島温泉
地蔵峠
2004年04月30日 地蔵峠には下の写真のような地蔵がありました。峠にその旨の看板があるので場所はすぐに分かると思います。秋葉街道(国道152号線)は標高が高いところを南アルプスに沿って南北に走っていると思っていたので… 続きを読む 地蔵峠
矢立て木
2004年04月30日 大鹿村指定天然記念物 矢立て木由緒戦国末期から江戸時代初期にかけて、遠山地方の豪族遠山氏が武田、徳川両氏に仕え、参勤の途上この樹に矢を射立てて武運を祈り且つ吉凶を卜したと云う。明治の中頃、立木処分… 続きを読む 矢立て木
馬場跡・日枝神社・花籠の台
2003年11月23日 馬場跡その昔は鉄砲馬場であったが、戦前は廻り馬場となり、当時は草競馬が年に数回行われ賑やかだったといわれている。また、この付近には「五十塚」と「六十塚」という地名があり永禄9(1566)年小田原攻… 続きを読む 馬場跡・日枝神社・花籠の台
ヤビツ峠
2003年11月23日 ヤビツ峠はカタカナの名前ですが、峠道の工事の際に矢櫃(やびつ:矢を入れる入れ物)が発見されたからだそうです。きっと矢櫃の櫃の字が難しいのでカタカナになったのかもしれません。永禄12(1569)年に… 続きを読む ヤビツ峠
信玄芝原
2003年11月22日 永禄12(1569)年、武田信玄が小田原攻めを行う時、戦勝祈願のため寒川神社に立ち寄り、兵を休めたところと伝えられています。この時奉納された、天文6(1537)年明珍房宗作の六十二間筋兜は寒川神社… 続きを読む 信玄芝原
角間渓谷
2003年11月03日 角間渓谷案内信濃耶馬渓とも呼ばれるこの渓谷は旧角間火山に烏帽子岳(2065米)が噴出して、火口を押しせばめてできた大渓谷である。旧火山の集塊岩に新たに噴出した角閃安山岩等が迫って多年の浸蝕作用で巧… 続きを読む 角間渓谷
猿ヶ馬場峠
2003年09月22日 猿ヶ馬場峠を越えるとその先には川中島平が開ける。武田信玄が信州の強敵を討ち滅ぼし、越後の上杉謙信との間で死闘が繰り広げられる川中島への出口の峠として、なんだか重要な意味を持つ峠のように思っていまし… 続きを読む 猿ヶ馬場峠
胴合橋
2003年08月15日 討死した山本勘助の首と胴体とを合わせたところと伝えられている。川中島古戦場の横にある釜飯のおぎのやの更に隣にある食事処そば蔵の敷地内にある。駐車場に入ればすぐに案内板があるので場所はわかると思いま… 続きを読む 胴合橋
雨宮の渡し
2003年08月15日 史跡雨宮渡案内図 川中島合戦と雨宮渡雨宮渡は、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった。史上名高い川中島の戦いは… 続きを読む 雨宮の渡し
犬越路
2003年05月28日 上の写真は津久井町青根から犬越路に向かう神ノ川林道を進んで一般車通行止めになっている場所です。ゲートが閉められていて入ることはできません。通行止めになっていることは分かっていたのですが後日PSアド… 続きを読む 犬越路
信玄道
2003年05月24日 愛川町役場の前を走っている道は、小田原城を囲んでいた武田軍が平塚から北上して三増峠へ向かって進んだ道で信玄道と言われているそうです。上の写真の場所は愛川町役場から少し南に行ったところです。
最近のコメント