2017年06月11日 天正10年3月2日、織田信忠は五万余の大軍を持って高遠城を攻めた。仁科五郎盛信は僅か2~3千の兵をもってこれを迎え討った。激しい戦闘の後に落城し盛信は自害した。盛信や武将の遺骸は勝間の若宮原で火葬… 続きを読む 一郎山(諸士の墓祠)
史跡の種類: 碑
石久摩神社(上田原古戦場碑)
2014年09月28日 天文17(1548)年旧暦2月、信濃攻略を進めていた武田信玄と、坂城町の葛尾城を本拠とする村上義清が武力衝突したのが上田原合戦です。信玄は南東にある倉升山、義清は北西にある天白山の麓にそれぞれ陣を… 続きを読む 石久摩神社(上田原古戦場碑)
真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
2014年08月16日 み「三子山に真田兄弟の墓ならぶ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで… 続きを読む 真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
甘利郷左衛門尉信康之碑
2014年08月16日 を「雄々しくも立ち腹さばく甘利信康」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 甘利郷左衛門尉信康は、父が甘利虎泰であり、兄が甘利左衛門尉昌忠である。父の甘利虎泰は板垣信方と共に上田原の戦いで戦死し… 続きを読む 甘利郷左衛門尉信康之碑
高坂源五郎昌澄之碑
2014年08月16日 昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには、25才の若さで兵2千を率いる隊将として戦った。昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武… 続きを読む 高坂源五郎昌澄之碑
鳥居強右衛門磔死之碑
2014年08月15日 天正3(1575)年5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となっ… 続きを読む 鳥居強右衛門磔死之碑
鳥居強右衛門の碑
2014年08月15日 2012年05月04日 鳥居強右衛門勝商の碑天正3年5月、武田軍に包囲された長篠城を抜け、岡崎の家康に救援を求めての帰路この地で捕らわれ磔にされた。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 鳥居強右衛門… 続きを読む 鳥居強右衛門の碑
横田十郎兵衛康景之碑
2014年08月15日 設楽原決戦では勝頼本営に配置さた足軽大将で騎馬30騎(足軽100人)。横田備中守の嗣。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 新昌寺前から北へ300メートル。道路から右に10メートル入った民家の庭先に… 続きを読む 横田十郎兵衛康景之碑
三方原古戦場
2013年12月31日 元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍はおよそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終わっ… 続きを読む 三方原古戦場
甲斐源氏旧蹟之碑
2013年12月22日 甲斐源氏旧蹟之碑寛治元(1087)年八幡太郎義家の弟新羅三郎源義光が官を辞し軍兵を従えて奥州に下り兄の陣(後三年の役)に加わり武功をたてたその功績により甲斐守に任ぜられたので義光の三男である。刑部… 続きを読む 甲斐源氏旧蹟之碑
信玄公旗掛松碑
2013年10月13日 日野春駅の東南端にあり、信玄がここを通った時に目標の旗を掛けたからこう呼ぶようになったという。明治36(1902)年国鉄中央線が開通したが、汽車の煤煙と震動により、「信玄公旗掛松」が大正9(191… 続きを読む 信玄公旗掛松碑
更科姫館跡
2013年09月07日 更科姫を偲んで北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。… 続きを読む 更科姫館跡
飯田河原古戦場慰霊碑
2013年09月01日 大永元(1521)年駿河今川家の臣福島正成は1万5千の大軍をもって甲斐に進入。9月16日西郡富田城を落としいれ、さらに北上の形勢を示した。武田信虎公は大井夫人を積翠寺要害山城に避難させ、2千の兵を… 続きを読む 飯田河原古戦場慰霊碑
土屋右衛門尉昌次の碑
2013年07月07日 信玄の代よりの重臣、土屋昌次31歳は第2の馬防柵を突破し、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により討死した。碑は、盛土の上の台石にある。高さ133センチ、幅100センチの野面石であり、「土屋右衛門尉昌次… 続きを読む 土屋右衛門尉昌次の碑
原隼人佐昌胤之碑
2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑
植栗城
2013年01月13日 吾妻川南岸崖上にあり、応仁2(1468)年、植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われてここに逃れた。植栗元吉討伐を命ぜられた斎藤憲次が叛し、大野憲直を滅ぼして岩櫃城主となった時、元吉は憲次に従… 続きを読む 植栗城
武田信玄公石碑
2012年11月25日 武田信玄公石碑 徳川幕府も太平の時代となり村人達も尊敬する信玄公を悪病退散の神様として祀り信仰し昭和初期まで「種痘」した人達の無病息災を祈り、六斉講が毎年6月ホウソ神送り念仏の行事を行っていた。中… 続きを読む 武田信玄公石碑
金剛寺
2009年12月29日 武田信春が応永10(1403)年に創立したといわれ、もとは金剛寺集落の南にあったと伝えられる。(山梨県の武田氏伝説より) この寺にある折戸の香炉は唐の玄宗の重器で、信玄が寄贈したものという。(山梨… 続きを読む 金剛寺
韮崎合戦大坪古戦場碑
2009年12月29日 ①韮崎宿の東北の片山の下に位置し、今は田となっている。殿田・旗田(旗を立てた所で八段田と呼んでいる)・信玄平(片山の中段で少し平な所)・伊勢山(信玄平の上で神明を祀る)・大明神坂(穴の明神の跡であ… 続きを読む 韮崎合戦大坪古戦場碑
安芸源氏武田一族終焉の地
2009年08月12日 今を去ること四百有余年の昔、天文10年3月13日新羅三郎源義光が末裔、安芸の国守護武田信重はおしよせる大内・毛利の大軍に祖父の地を死守せんと奮戦せしも、衆募敵せず金山城にて一族諸共に自刃す。残りし… 続きを読む 安芸源氏武田一族終焉の地
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