一郎山(諸士の墓祠)

2017年06月11日 天正10年3月2日、織田信忠は五万余の大軍を持って高遠城を攻めた。仁科五郎盛信は僅か2~3千の兵をもってこれを迎え討った。激しい戦闘の後に落城し盛信は自害した。盛信や武将の遺骸は勝間の若宮原で火葬… 続きを読む 一郎山(諸士の墓祠)

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カテゴリー: 伊那市

真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑

2014年08月16日 み「三子山に真田兄弟の墓ならぶ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで… 続きを読む 真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑

三方原古戦場

2013年12月31日 元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍はおよそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終わっ… 続きを読む 三方原古戦場

信玄公旗掛松碑

2013年10月13日 日野春駅の東南端にあり、信玄がここを通った時に目標の旗を掛けたからこう呼ぶようになったという。明治36(1902)年国鉄中央線が開通したが、汽車の煤煙と震動により、「信玄公旗掛松」が大正9(191… 続きを読む 信玄公旗掛松碑

更科姫館跡

2013年09月07日 更科姫を偲んで北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。… 続きを読む 更科姫館跡

原隼人佐昌胤之碑

2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑

植栗城

2013年01月13日 吾妻川南岸崖上にあり、応仁2(1468)年、植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われてここに逃れた。植栗元吉討伐を命ぜられた斎藤憲次が叛し、大野憲直を滅ぼして岩櫃城主となった時、元吉は憲次に従… 続きを読む 植栗城

武田信玄公石碑

2012年11月25日 武田信玄公石碑 徳川幕府も太平の時代となり村人達も尊敬する信玄公を悪病退散の神様として祀り信仰し昭和初期まで「種痘」した人達の無病息災を祈り、六斉講が毎年6月ホウソ神送り念仏の行事を行っていた。中… 続きを読む 武田信玄公石碑

金剛寺

2009年12月29日 武田信春が応永10(1403)年に創立したといわれ、もとは金剛寺集落の南にあったと伝えられる。(山梨県の武田氏伝説より) この寺にある折戸の香炉は唐の玄宗の重器で、信玄が寄贈したものという。(山梨… 続きを読む 金剛寺

韮崎合戦大坪古戦場碑

2009年12月29日 ①韮崎宿の東北の片山の下に位置し、今は田となっている。殿田・旗田(旗を立てた所で八段田と呼んでいる)・信玄平(片山の中段で少し平な所)・伊勢山(信玄平の上で神明を祀る)・大明神坂(穴の明神の跡であ… 続きを読む 韮崎合戦大坪古戦場碑