雨宮刑部之墓

2014年09月28日 上田原合戦のあらまし天文17(1548)年2月甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月14日この地で激しい合戦が行われた。この戦い… 続きを読む 雨宮刑部之墓

桂林寺

2014年09月14日 薬師堂 小山田家伝世の板碑関東系の緑泥片岩を用いた板碑で、頭部は山形で、身部には上部に本尊の種字キリーク(阿弥陀如来)、下部には紀年銘「応永2(1395)年3月15日」が刻まれている。室町時代初期… 続きを読む 桂林寺

宝林寺

2014年09月14日 笠原夫人の墓 五輪塔ノ由来 武田信玄合戦記天文16(1547)年、武田ノ攻ニ屈シタ信州志賀城主笠原新三郎ハ従ハザルヲ得ナカッタ其ノ夫人21才賢才ニシテ美貌ノ誉高ク武田方ノ噂ニ登ッタ。小山田殿、夫人… 続きを読む 宝林寺

林泉寺

2014年08月24日 惣門 上杉謙信公によって春日山城から移築された往時を今に伝える唯一の門。(パンフレット資料より) 明応6(1497)年、上杉謙信公の祖父越後守護代長尾能景公が、父重景公の17回忌にあたり、越後鎮護… 続きを読む 林泉寺

堀無手右衛門之墓

2014年08月16日 郷土史家牧野文斎は、その著書『設楽原戦史考』の彼我の戦死者の考証の中で「真偽決しがたく、また洩れたる分少なからず、否認すべきもの左の諸氏あり」として、堀無手右エ門の設楽原における戦死を否定している… 続きを読む 堀無手右衛門之墓

土屋備前守直規の墓

2014年08月16日 土屋備前守直規(貞綱ともいう)は、今川家の家臣岡部一族の出身で岡部忠兵衛といった。戦国時代の岡部氏は朝日山城(藤枝)を居城として今川家の中でも重きをなしていたという。この頃の当主岡部正綱は今川家滅… 続きを読む 土屋備前守直規の墓

川窪備後守詮秋の墓

2014年08月16日 「参河国名所図会」に武田戦死者として川窪備後の名が見られる。また一級資料である「信長公記」の中にも、討ち捕る頸の見知分として山県・馬場などの武将とともに川窪備後詮秋がある。「長篠実戦記」でも、甲州… 続きを読む 川窪備後守詮秋の墓

五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)

2014年08月16日 かるたでつづる設楽原古戦場によれば、五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方の浪人組の将として鳶ヶ巣方面の5つの陣地のひとつである中山砦に名和無理之助らとともに布陣した。しかし5月21… 続きを読む 五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)

内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)

2014年08月16日 甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年… 続きを読む 内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)

山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)

2014年08月16日 信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小… 続きを読む 山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)

和気善兵衛宗勝之墓

2014年08月15日 和気善兵衛宗勝の墓久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場… 続きを読む 和気善兵衛宗勝之墓

高坂又八郎助宣の墓

2014年08月15日 「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男… 続きを読む 高坂又八郎助宣の墓

笠井肥後守満秀の墓

2014年08月15日 勝頼はせきたてられて第一線から離脱して橋詰まで来たが、疲れた馬は動かない。追手は迫ってくる。このとき旗本の中でも剛の者笠井肥後守満秀は自分の馬をすすめたが、勝頼は乗ろうとしない。追撃は急である。寸… 続きを読む 笠井肥後守満秀の墓