2007年10月28日 信虎の三男(実は四男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は孫六で、元服して刑部少輔の官途を称した。兄信繁とともに、信玄を支え、信濃深志城代や高遠城代を歴任したとい… 続きを読む 武田刑部少輔信廉屋敷跡
カテゴリー: 甲府市
横田備中守高松屋敷跡
2007年10月28日 伊勢国出身と伝わる。騎馬30騎、足軽百人を率いる足軽大将として、武田信虎・信玄2代の重要な作戦のうち、34度に参加し、そのため全身に31ヶ所の疵痕があったと伝わる。天文15(1546)年8月、信玄… 続きを読む 横田備中守高松屋敷跡
三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡
2007年10月28日 三枝氏は、古代以来の甲斐土着の豪族で、鎌倉時代に入って、甲斐源氏の勢力下に入った。守友といわれるが、実名は昌貞が正しい。父土佐守虎吉とともに、信玄に仕え、守友は奥近習6人の1人に抜擢された。その後… 続きを読む 三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡
原隼人佑昌胤屋敷跡
2007年10月28日 信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じされたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の… 続きを読む 原隼人佑昌胤屋敷跡
内藤修理亮昌豊屋敷跡
2007年10月28日 武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6(1563)年ごろ、信濃国深志城(現在… 続きを読む 内藤修理亮昌豊屋敷跡
板垣駿河守信方屋敷跡
2007年10月28日 武田氏の譜代家老で、両職という最高職に就任していた重臣。板垣氏は甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。天文9(1540)年4月、信方は信濃佐久郡侵攻を信虎に命じられ、臼田・入沢城など数十… 続きを読む 板垣駿河守信方屋敷跡
穴山玄蕃頭信君屋敷跡
2007年10月28日 穴山氏は、甲斐源氏の支流で、穴山を本拠地にしつつ、河内領(南巨摩郡一帯)を支配した強豪。信君は、穴山信友の子で、生母は信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見性院殿であり、極めて重用されたことがわかる… 続きを読む 穴山玄蕃頭信君屋敷跡
高坂弾正忠昌信屋敷跡
2007年10月28日 高坂弾正の名で知られるが、実際には香坂弾正忠虎綱、後に本性に戻って春日虎綱と称している。石和の大百姓春日大隈の子で、天文11(1542)年に信玄に見出されて近習となり、その後使い番を経て、天文21… 続きを読む 高坂弾正忠昌信屋敷跡
真田弾正忠幸隆屋敷跡
2007年10月28日 真田氏は、信濃国小県郡を中心に発展した滋野一族の支流で、幸隆は名族海野氏の出身といわれる。実名は幸綱が正しい。天文10(1541)年に、信玄の父信虎に攻められ、海野棟綱らとともに上野国に亡命したが… 続きを読む 真田弾正忠幸隆屋敷跡
甘利備前守虎泰屋敷跡
2007年10月28日 武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していたとされる重臣。甘利氏は甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。本拠地は、甘利荘と呼ばれた地域で、そこに館(現在の韮崎市大輪… 続きを読む 甘利備前守虎泰屋敷跡
山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
2007年10月28日 昌景は、武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。弘治2(1556)年ごろには、武田信玄の側近および奉行として活躍している。永禄8(1565)年に、兄虎昌が義信事件に連座して処刑されると、信玄の命… 続きを読む 山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡
小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡
2007年10月28日 小畠虎盛は、遠江国の出身で、幼少の折に父日浄とともに武田家に仕え、永正15(1518)年に父死去により家督を相続し、信虎から騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄2代… 続きを読む 小畠山城守虎盛・小幡豊後守昌盛屋敷跡
多田淡路守満頼屋敷跡
2007年10月28日 多田淡路守は、美濃の出身という。仮名は三八郎といい、略して多田三八と呼ばれることが多かった。足軽大将に任命され、信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所… 続きを読む 多田淡路守満頼屋敷跡
馬場美濃守信春屋敷跡
2007年10月28日 甲信国境の豪族教来石氏(武川衆)の出身で、天文15(1546)年に信玄に抜擢され、50騎を預けられて、馬場氏の名跡を継いだという。信玄の信濃経略で活躍し、天文19(1550)年に小笠原長時が没落す… 続きを読む 馬場美濃守信春屋敷跡
武田典厩信繁屋敷跡
2007年10月28日 信虎の次男(実は三男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は次郎(二郎)で、元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称した。この官途の唐名が典厩であり、左典厩とも呼ばれ… 続きを読む 武田典厩信繁屋敷跡
秋山伯耆守信友屋敷跡
2007年10月28日 秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。信友といわれるが、実名は虎繁が正しい。天文15(1546)年に侍大将に抜擢され、信玄の信濃伊那郡制圧に伴い、高遠城代を、次いで飯田城代を歴… 続きを読む 秋山伯耆守信友屋敷跡
飯富兵部少輔虎昌屋敷跡
2007年10月28日 武田家の譜代家老で、山県昌景の実兄。永正12(1515)年ごろ、家督を相続したが、享禄4(1531)年に信虎と対立し、御岳に今井・栗原氏らと立て籠もったこともある。まもなく武田氏に帰服し、信虎追放… 続きを読む 飯富兵部少輔虎昌屋敷跡
川田館跡
2007年04月25日 川田館跡は、武田信玄の父信虎が永正16(1519)年につつじヶ崎(現在の武田神社一帯)に館を移すまで、甲斐国統治の中心であった。15世紀後半、信虎の祖父信昌がこの館を築いたといわれる(甲斐国志)が… 続きを読む 川田館跡
逍遥禅院
2005年09月11日 武田逍遥軒信綱公之祠 本堂の左奥に入ってすぐのところに武田信廉の祠がありました。住職と思われる方の話によれば、武田信廉は武田家が滅んだ後の織田・徳川軍による武田の残党狩りで殺されたため、墓は存在し… 続きを読む 逍遥禅院
攀桂寺
2005年09月11日 曹洞宗遊月山攀桂寺当山は開山宗祖道元14世法孫道威元亀2年5月跡部伊賀守信秋の創立で、はじめ穀蔵寺と称したが後に信秋の舎号攀桂斎をとって攀桂寺と改めた。跡部氏は甲斐源氏小笠原長清の長男伴野六郎時長… 続きを読む 攀桂寺
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