2015年05月03日 天文12(1543)年、武田晴信(信玄)が長窪城(古町北古屋)を攻略すると、小県・佐久地方の土豪らは、長窪城の奪還を目指して腰越村(上田市腰越)に結集し、深山を経て進撃しました。一方、これを知った… 続きを読む 千人塚
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若宮八幡神社
2015年05月03日 若宮八幡神社本殿・和田城主大井信定父子の墓祭神は、仁徳天皇である。本殿は、一間社流造の間口1.5メートル、奥行1.7メートルの大きさで棟札には享保6(1721)年建立とある。正面と側面に廻縁をつけ… 続きを読む 若宮八幡神社
和田城
2015年05月03日 本郭と土塁 大井朝光の子孫大井美作守光照の子信広が、小県郡武石に居を移した。その子信定は和田に分かれて城を築いた。天文14(1545)年頃、武石の大井信広が武田氏に降ったのち移ったものと思われる。… 続きを読む 和田城
信定寺
2015年05月03日 信定寺の沿革と由来釈迦如来(鎌倉時代)を本尊とし、戦国時代武田信玄が信濃を攻め、城主大井信定討死、その菩提を弔う為天文22年に建立。徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊り京都二条殿祈願寺とな… 続きを読む 信定寺
長窪城
2015年05月03日 本郭 長窪城は、佐久郡芦田郷(現北佐久郡立科町芦田)一帯を所領としていた芦田氏が、室町時代中頃の正長元(1428)年頃に出城として築城したといわれています。その後、佐久地域を本拠地とした大井氏が長… 続きを読む 長窪城
芦田城
2015年05月03日 別名倉見山高井城と称し、文安2(1445)年、芦田(依田)又四郎光徳が築いた山城である。中山道が軽井沢岩村田を過ぎ、望月から旧芦田宿に入る手前を左に折れ、南に向かって約1km半の所、西側と東側が山… 続きを読む 芦田城
楽厳寺城
2015年05月03日 土塁 文明年間から天文年間にかけて甲斐の武田氏が佐久に侵入し、地侍やこれを支援する村上氏と相争うに及んで脚光を浴びた城である。天文9年頃から武田氏の佐久侵入は激しさを加え、佐久の諸城は相次いで攻略… 続きを読む 楽厳寺城
釈尊寺
2015年05月03日 布引山釈尊寺「牛に引かれて善光寺参り」の伝説で知られる布引山釈尊寺は、神亀元(724)年の創建と伝えられています。天文17(1548)年、武田信玄が楽巖寺入道、布下仁兵衛を攻めたときに兵火にかかっ… 続きを読む 釈尊寺
武田信繁首塚
2015年05月03日 武田信繁の墓碑由来について永禄4年9月の川中島合戦は、信玄対謙信の最大の戦いで両軍とも有名な武将を多く失っている。信玄方の副大将であった信繁もこの激戦において戦死した。最後まで信繁のそばで奮戦した… 続きを読む 武田信繁首塚
小諸城
2015年05月03日 三の門 重要文化財 小諸城三の門(平成5年12月9日国指定)小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城しました。三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。し… 続きを読む 小諸城
光城
2014年11月16日 光城址と古峯神社のゆかりこの山頂にお城が築かれたのは遠く500年余りの昔、戦国時代もまだまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の… 続きを読む 光城
広田寺
2014年11月16日 会田塚と虚空蔵山城 会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骸の代わりに埋められたと言われている。会田氏は天正10(1582)年10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住… 続きを読む 広田寺
虚空蔵山城
2014年11月16日 本丸 武田信玄が活躍していた頃、この虚空蔵山城の城主であった会田氏は、佐久郡望月の牧を中心に根を張って栄えた滋野氏の一派である海野氏の一族である。海野幸氏は小太郎といい、源頼朝に気に入られ海野の庄… 続きを読む 虚空蔵山城
洞光寺
2014年11月16日 本堂 太田弥助兄弟(中沢氏)の五輪石塔 2005年12月04日 薬師堂 旧四賀村役場(現在の松本市役所四賀支所)で四賀村誌を見せていただいたときに、洞光寺というところに苅谷原城の城主であった太田資… 続きを読む 洞光寺
苅谷原城
2014年11月16日 本丸 高白斎記によれば、武田信玄は天文22(1553)年3月29日に軍事拠点である深志城を出発し、午後には苅谷原城に着陣し、翌30日には城の周辺を放火し、4月1日の攻撃を経て2日午後には苅谷原城を… 続きを読む 苅谷原城
平瀬城
2014年11月16日 平瀬城について古代以降この地を領有し統轄してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に信府へ入る。信濃守護小笠原氏の信任あつく南北朝争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を供にしてくる。平瀬は小笠原… 続きを読む 平瀬城
法善寺
2014年11月16日 法善寺由緒法善寺は、元法相宗岩龍山西谷寺と称し、奈良興福寺の末寺と推定され、興福寺の前身山階寺の寺封「信濃二百戸」と新抄格勅符抄に載っている中の一ヶ所がこの西谷寺を中心とした地域であろうと見られて… 続きを読む 法善寺
麻績城
2014年11月16日 麻績城跡からめて入口 戦国時代に麻績の地を支配したのは服部氏で、古屋敷に居館を構えた。天文22(1553)年3月末、甲斐の武田晴信(信玄)が四賀村の苅谷原城、会田の虚空蔵山城を破って筑摩北部地方に… 続きを読む 麻績城
切通し
2014年11月16日 善光寺街道随一の名所。天正8(1580)年に青柳伊勢守頼長により切り開かれた。元禄11(1698)年には「長さ13間5尺、横8尺5寸、高さ1丈」と記され、その後享保元(1716)年、明和6(176… 続きを読む 切通し
清長寺
2014年11月16日 天正元(1573)年青柳城主青柳伊勢守頼長が開基。最初、やや北方の里坊の地に、父清長の菩提を弔うために創立した。後に小笠原氏が青柳氏を滅亡させたあと、居館跡の現在地に移して整備したといわれている。… 続きを読む 清長寺
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