一郎山(諸士の墓祠)

2017年06月11日 天正10年3月2日、織田信忠は五万余の大軍を持って高遠城を攻めた。仁科五郎盛信は僅か2~3千の兵をもってこれを迎え討った。激しい戦闘の後に落城し盛信は自害した。盛信や武将の遺骸は勝間の若宮原で火葬… 続きを読む 一郎山(諸士の墓祠)

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殿島城

2017年06月11日 天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増大す。本姓は… 続きを読む 殿島城

蓮台場

2017年06月11日 戦国時代の昔、武田信玄の侵略に対して最後まで抵抗した伊那の地侍、伊那部左衛門尉重親(春日城主、現春日城址公園)、殿島大和守重国(殿島城主、現殿島城址公園)、溝口民部少輔正慶、黒河内隼人正信、松島豊… 続きを読む 蓮台場

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春日城

2017年04月23日 春日城の沿革天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増… 続きを読む 春日城

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三光寺

2016年12月18日 武田晴信が開基したので、現在でも花菱の紋を用いている。(長野県町村誌より) 応永2(1395)年に開基された。武田信玄の祖信重が僧となり、父信満のために城山の東麓の字満願寺に真如山満願寺を建て、真… 続きを読む 三光寺

高栄寺

2016年12月18日 永禄2(1559)年武田氏の創建と伝えられ、開山は盛喜和尚という。また、寺は武田信玄によって創立されたと伝えられ、永禄2(1559)年10月、富士見町立沢地籍焼地野に祈願寺として建立されたといわれ… 続きを読む 高栄寺

常昌寺(先達城)

2016年12月18日 享禄元(1528)年8月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取… 続きを読む 常昌寺(先達城)

御射山社

2016年12月18日 ここに鎮座する御社山社は、建御名方命と国常立命を祭神としている。中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。それは秋季の台風などが平… 続きを読む 御射山社

センボウ塚

2016年12月18日 池袋の馬冷場と呼ばれる池は、花鳥屋合戦の時に馬を冷した場所と伝えられている。池袋には花鳥屋合戦についての口碑が他にも残存し、馬冷場付近のセンボウ塚(センブ塚ともいう)はこの戦いで死んだ者の塚で、千… 続きを読む センボウ塚

九ツ塚跡

2016年12月18日 九ツ塚は、瀬沢合戦の戦死者を葬ったものと伝えられる。瀬沢合戦とは『甲陽軍鑑』によれば、およそ次のような合戦のことである。天文11(1542)年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武… 続きを読む 九ツ塚跡

瀬沢合戦跡

2016年12月18日 瀬沢合戦とは、『甲陽軍鑑』によればおよそ次のような合戦のことである。天文11(1542)年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと合戦し、甲信境の瀬沢に陣取… 続きを読む 瀬沢合戦跡

旭山城

2016年05月01日 本郭 旭山城は善光寺の南西にある旭山の山頂にある。東側は山麓の直下を裾花川が南流し、南方約7㎞の地点には犀川が東流しており、難攻不落の天然の要害といえる。また眼下に善光寺平一帯を見下ろすことのでき… 続きを読む 旭山城

霊山寺

2016年05月01日 花岡平と霊山寺花岡平には善光寺縁起書や信濃砂々礼石などの古文書によると、今から1300年ほど前、善光寺如来が安置されていました。後に参詣人の便の為に現在の場所に移されました。霊山寺は上水内郡信濃町… 続きを読む 霊山寺

謙信物見の岩

2016年05月01日 2004年05月22日 上杉謙信の物見の岩、物見の岩などともいうらしいが地元では謙信物見の岩といっているそうである。その名の通り上杉謙信がここから善光寺平を眺めたところだそうだが、確かに景観は絶景… 続きを読む 謙信物見の岩