2013年07月07日 信玄の代よりの重臣、土屋昌次31歳は第2の馬防柵を突破し、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により討死した。碑は、盛土の上の台石にある。高さ133センチ、幅100センチの野面石であり、「土屋右衛門尉昌次… 続きを読む 土屋右衛門尉昌次の碑
投稿者: mogibushi-takeda
首洗池
2013年07月07日 首洗い池は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、首や刀や武具などの血を洗い落としたといわれている。(東三河の史跡めぐりより) 国道151号線が古戦場を破壊してしまった。家康本陣から見ると山がえぐり取られてい… 続きを読む 首洗池
信玄塚
2013年07月07日 大塚 天正3(1575)年5月、戦いが終って、出沢の小屋久保に避難していた里人らは、帰ると累々と横たわる屍体の埋葬にあたった。この地に二つの塚があり、大塚は武田軍の、小塚は連合軍の戦没者葬ったもの… 続きを読む 信玄塚
原隼人佐昌胤之碑
2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑
馬防柵
2013年07月07日 設楽原決戦場祭りの当日、馬防柵周辺では地元の小学生や鉄砲隊などによる長篠・設楽原合戦の演舞が行われました。各方面から織田軍、徳川軍、武田軍に扮した小学生や中学生が集まり、鉄砲隊や馬に乗った子供たち… 続きを読む 馬防柵
阿弥陀橋跡
2013年07月07日 元亀3年12月三方原は武田徳川の両軍が合戦をしたが、徳川は武田に追われ小川に来てみると橋が焼けているので家康の臣が、中沢の常楽寺の仏像を持って来て橋をかけて難を逃れた。仏像は臣が常楽寺に返したが背… 続きを読む 阿弥陀橋跡
長篠城
2013年07月06日 長篠城は豊川の上流、寒狭川(滝川)と大野川(三輪川)とが合流する地点の断崖絶壁の上にある。城址は現在愛知県南設楽郡鳳来町字長篠に存し東西およそ327メートル、南北約254メートルある。城の機構は「… 続きを読む 長篠城
小幡上総介信貞の墓
2013年07月06日 金子藷山の『藷山随筆』に、墓は「新間東弾正山中に古塚あり是なり」とある。小幡信貞は上野国甘楽郡国峰城主憲重の子6人兄弟の長男であり、連吾川や馬防柵前で奮戦討死した。設楽原をまもる会は、平成9年3月… 続きを読む 小幡上総介信貞の墓
積翠寺
2013年06月29日 積翠寺と要害山 甲斐国志によると開山は行基、夢窓国師の弟子竺峰が中興したという。慶安元(1648)年、仰厳恵高の時代に妙心寺派に転派する。境内に泉が湧き出ていて巨岩から滝になっていたところから、も… 続きを読む 積翠寺
要害城
2013年06月29日 要害城全景 川田の館から甲斐府中への移転を決めた武田信虎は永正16(1519)年夏頃から新館の建設に取り掛かり12月に入居しているが、自らが移転するだけではなく服属する国人達にも移住を強要した。こ… 続きを読む 要害城
太刀洗の池
2013年01月27日 太刀洗いの池は、この南10m位のところにあった。このあたり一帯は藪におおわれ、約50平方メートルほどの池であった。徳川家康の正室は今川義元の家臣関口刑部少輔義慶の娘で、岡崎の山にちなんで築山御前と… 続きを読む 太刀洗の池
西来院
2013年01月27日 洞宗、高松山と号し、寒巌十三派中月窓派と称した。月窓義運禅師が正長元(1428)年に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏。長藤の寺として親しまれている。墓苑には徳川家康の正室築山御前の廟堂(月窟廟)をはじ… 続きを読む 西来院
犀ヶ崖
2013年01月27日 犀ヶ崖資料館 前回訪問した時には夕方だったこともあって中に入ることができなかったのですが、今回は開館中でしたので中に入ることができました。資料館の管理人の方が中を案内してくれて、三方原の地形の立体… 続きを読む 犀ヶ崖
光源院
2013年01月04日 開創以来四百五十有余年の法城として、今にその伝統を伝えている萬松山光源院は、山梨市永昌院開基武田信昌公五世敬翁性遵禅師によって享禄元(1528)年に開かれ、新羅三郎義光公の後裔甲斐源氏逸見若狭守義… 続きを読む 光源院
仙蔵城
2013年01月13日 内山城は中世の山城で、仙蔵城(要害)や千道の要害と呼ばれました。城は四万と沢渡の分岐地点東、崖上の尾根にあり、守り堅固な天然の要害で、嵩山城の外郭として重要な砦でした。当地が追手で、本丸最高地点ま… 続きを読む 仙蔵城
岩下城
2013年01月13日 岩櫃城の西3kmにある支城で、吾妻川南側の三島根小屋城と共に吾妻川を挟んでいる。岩櫃城は山頂を縄張りに取り入れていないので、西の守りに不可欠である。この城は斎藤氏の築城だが、斎藤憲次が大野氏を滅ぼ… 続きを読む 岩下城
植栗城
2013年01月13日 吾妻川南岸崖上にあり、応仁2(1468)年、植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われてここに逃れた。植栗元吉討伐を命ぜられた斎藤憲次が叛し、大野憲直を滅ぼして岩櫃城主となった時、元吉は憲次に従… 続きを読む 植栗城
海野長門守の墓
2013年01月13日 墓碑は宝篋印塔で、総高2メートル、墓碑の三方に碑文が刻まれている。右側、上野州我妻郡羽尾城主海野長門守同舎弟能登守従往者雖有遺跡没為水災故改之正面、雲林院殿前長州洞雲全龍居士左側、干時元文三年戌午… 続きを読む 海野長門守の墓
羽根尾城
2013年01月13日 戦国時代に信濃源氏、滋野氏の末裔羽尾幸全入道は羽尾城を根拠として勢力を振るった。幸全の舎弟海野幸光(長門守)、輝幸(能登守)兄弟、ともに武勇を謳われた豪の者で、永禄9(1566)年真田幸隆により幸… 続きを読む 羽根尾城
長野原城
2013年01月13日 長野原城本丸址 長野原城跡長野原街並みの北側の尾根、東西約7百メートルに細長く位置している。本丸、出丸、箱岩で丸、物見台、水の手からなり、それぞれ虎口、堀切り、腰曲輪等で守られている。箱岩出丸は、… 続きを読む 長野原城
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