2007年10月28日

三河国牛窪出身の浪人で、諸国を遍歴し兵法や築城術を会得したが、隻眼となり、片足も不自由になったという。天文5(1536)年に、駿河国今川義元に仕官しようとするが、実現しなかった。天文12(1543)年、勘助の噂を聞きつけた板垣信方の推薦で、信玄に召し抱えられ、足軽大将となる。戸石城攻防戦などの合戦で、目覚しい活躍をし、武田家中では、軍神摩利支天のようだと称えられた。内政、軍略、築城術に関する信玄の諮問に答え、さまざまな意見を具申する軍師として、重用された。信玄の出家とともに剃髪して、道鬼斎と称した。勘助の築城術は、後に馬場信春に伝授され、甲州流、山本勘助道鬼流と呼称されたという。永禄4(1561)年の川中島の戦いで、上杉謙信撃滅の秘策として「啄木鳥戦法」を進言するが失敗し、責任を痛感して、乱戦の中に身を投じて戦死した。
(看板資料より)
山本勘助晴幸

(?~永禄4年9月10日)
信玄を補佐した隻眼の軍師
(看板資料より)