2003年11月23日 井宝山米倉寺と号し、曹洞宗に属す。天文元(1532)年の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市堀山下の米倉一族の菩提寺、蔵林寺の二世)。由緒によれば往古この地に用国院と呼ぶ寺院があり、伊豆の普門院を… 続きを読む 米倉寺
年: 2003年
馬場跡・日枝神社・花籠の台
2003年11月23日 馬場跡その昔は鉄砲馬場であったが、戦前は廻り馬場となり、当時は草競馬が年に数回行われ賑やかだったといわれている。また、この付近には「五十塚」と「六十塚」という地名があり永禄9(1566)年小田原攻… 続きを読む 馬場跡・日枝神社・花籠の台
ヤビツ峠
2003年11月23日 ヤビツ峠はカタカナの名前ですが、峠道の工事の際に矢櫃(やびつ:矢を入れる入れ物)が発見されたからだそうです。きっと矢櫃の櫃の字が難しいのでカタカナになったのかもしれません。永禄12(1569)年に… 続きを読む ヤビツ峠
蔵林寺
2003年11月23日 ここには米倉丹後守一族の墓地があります。蔵林寺と書かれた入口に車を止めて中に歩いて行きましたが寺の境内には立派な駐車場がありました。そのまままっすぐに進むと本堂と思われる建物があり、向かって左側の… 続きを読む 蔵林寺
信玄芝原
2003年11月22日 永禄12(1569)年、武田信玄が小田原攻めを行う時、戦勝祈願のため寒川神社に立ち寄り、兵を休めたところと伝えられています。この時奉納された、天文6(1537)年明珍房宗作の六十二間筋兜は寒川神社… 続きを読む 信玄芝原
角間渓谷
2003年11月03日 角間渓谷案内信濃耶馬渓とも呼ばれるこの渓谷は旧角間火山に烏帽子岳(2065米)が噴出して、火口を押しせばめてできた大渓谷である。旧火山の集塊岩に新たに噴出した角閃安山岩等が迫って多年の浸蝕作用で巧… 続きを読む 角間渓谷
二連木城
2003年10月12日 元亀2(1571)年武田信玄は、三河に侵入して足助城、大沼城、田代城などの城を落としそのまま尾張に出撃する勢いでしたが、その後突然南下して菅沼定盈が守る野田城から吉田城へ向かいます。徳川家康は武田… 続きを読む 二連木城
設楽原歴史資料館
2003年10月12日 設楽原史跡めぐりのポイント設楽原・長篠の史跡めぐりをする際の拠点及び情報収集の場としてまずこの設楽原歴史資料館に寄ることをお勧めします。新城市役所の方にも寄らせていただきましたが、文化財等に関する… 続きを読む 設楽原歴史資料館
八剱表激戦地
2003年10月12日 徳川家康本陣地から武田軍の陣地の方へ向かっていくと途中、東郷中学校の校庭の横に「八剱表激戦地」の看板がありました。家康物見塚より更に織田・徳川連合軍側に深く入り込んだところであり、こんなところで激… 続きを読む 八剱表激戦地
武田勝頼戦地本陣跡
2003年10月12日 天正3(1575)年5月、武田勝頼は織田、徳川連合軍との決戦を前に長篠の医王寺で軍議を開いた。多くの忠臣は決戦を回避すべしと進言したが、勝頼は聞き入れず寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地… 続きを読む 武田勝頼戦地本陣跡
吉田城
2003年10月11日 吉田城略史当吉田城は、はじめ今橋城と称し永正2(1505)年、牧野古白によって構築された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国部将の攻防を経て天正18(1590)年に池田輝政が入封し、15… 続きを読む 吉田城
望月城
2003年09月23日 ここから南方の総合体育館裏山までの約2千メートルの間が望月城跡であり、望月氏の居城である。本地が本城で、主郭から三の郭までが構築され、南方の支城には五の郭までが確認できる。雄大にして堅固な山城で、… 続きを読む 望月城
猿ヶ馬場峠
2003年09月22日 猿ヶ馬場峠を越えるとその先には川中島平が開ける。武田信玄が信州の強敵を討ち滅ぼし、越後の上杉謙信との間で死闘が繰り広げられる川中島への出口の峠として、なんだか重要な意味を持つ峠のように思っていまし… 続きを読む 猿ヶ馬場峠
おいらん渕
2003年09月06日 おいらん渕この地を「おいらん渕」というが、土地の人は「銚子滝」という。おいらん渕はこれより上流の藤尾橋近くにある「ゴリョウ滝」のことではないかと伝えられている。戦国時代、黒川千軒といわれたころ、金… 続きを読む おいらん渕
湯之奥金山博物館
2003年08月25日 湯之奥金山の地図 毛無山の山腹にある中山金山、内山金山、茅小屋金山の三つの金山を湯之奥金山と総称する。高い山の金脈を追った金山衆の技術を示し、江戸期に盛んになる金・銀山の源となった戦国期の金山の姿… 続きを読む 湯之奥金山博物館
勘助宮
2003年08月15日 勘助宮跡は、この地より北東約100メートルの位置にあった。勘助宮はもともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祭る諏訪社であった。遠い戦国の世、上杉・武田両軍の数度にわたる戦いがあり中でも永禄4(1… 続きを読む 勘助宮
胴合橋
2003年08月15日 討死した山本勘助の首と胴体とを合わせたところと伝えられている。川中島古戦場の横にある釜飯のおぎのやの更に隣にある食事処そば蔵の敷地内にある。駐車場に入ればすぐに案内板があるので場所はわかると思いま… 続きを読む 胴合橋
松山城
2003年08月07日 松山城跡の図 この城跡は、市野川が形成した広大な低地に突き出た丘陵の東端に築かれており、戦国期に幾度もの攻防戦が行われた北武蔵地方屈指の平山城である。現存する城跡は当時の姿を良好にとどめており貴重… 続きを読む 松山城
雨宮の渡し
2003年08月15日 史跡雨宮渡案内図 川中島合戦と雨宮渡雨宮渡は、往時北国街道の要衝にあって、千曲川渡船場として川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった。史上名高い川中島の戦いは… 続きを読む 雨宮の渡し
小岩嶽城
2003年07月05日 小岩嶽城址について当城は、中世の古厩郷の領主古厩氏の宿城と考えられ、城域は、今の小岩岳集落も含めた広範囲とされ、現在も集落内には空掘の一部と地割が見られます。また本郭は約1平方キロメートル、その平… 続きを読む 小岩嶽城
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