2012年02月19日

可睡斎の由来
可睡斎は600年前(応永8年)、如仲天誾禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹です。
11代住職仙麟等膳大和尚は、幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に家康が浜松城主になった折、報恩の為に城に招かれた、その席でコックリコックリ居眠りを始めました。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡る可し」(御前にて睡っても無礼ではないとの意)と言い、「可睡和尚」と愛称せられ、寺号も東陽軒から可睡斎と改め、後に拾万石の待遇と徳川家康最初の僧録司という職を与えられました。
(看板資料より)
山門

禅宗寺院の七堂伽藍の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して3つ、あるいは参道に沿って三つ設けられたことからも三門または、山門と書かれた。
また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門(山門)とされた。
また可睡斎の山門は、昭和10年に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼しておりましたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年に落慶致しました。
金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。
開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の二体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には、仁王(本来は二王と書く)の名で親しまれている。彫刻師は岐阜県美濃の大橋祐瑞師。
言語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。
日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕にし、吽形像は怒りを内に秘めた表情にするものが多い。
こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
(看板資料より)
本堂

火防守護の総本山
秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から千三百年の昔、越後蔵王権現堂の十二坊の一つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩三十三化身の一つであります迦樓羅身を現じられました。かくして秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第一に、三大誓願をおこし火防の霊場を開かれました。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治6年に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願しています。
(看板資料より)
出世六の字穴

「出世六の字穴」の伝説
戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。
その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城などを築き国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。
その出世の故事になぞらえ、当斎のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。
出世六の字とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世間から解脱する「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる。
なお、当斎にはその後、徳川幕府より駿河・遠江・三河・伊豆の寺院を統括する「僧録司」の職と十万石の待遇が与えられた。
(看板資料より)
出世六の字穴の内部

達磨塔

本堂内部

位牌堂

日本一のトイレ

可睡斎護国塔

この塔は、高さ17.1mの鉄筋コンクリート造り、人造石洗出し仕上げの円形ドームで明治44(1911)年の建立である。インドのガンダーラ様式を取り入れ、南面は花崗岩が積まれている。塔の二重基檀上へ16段の石段を登ると、正面入口には、柱頭の三方に馬頭を模したエンタシスのある柱が左右に立ち、ドームから突き出た小屋根を支えている。
護国塔は、日露戦争の戦死者の霊をまつるために建設されたもので、設計原案を伊東忠太が施工を佐野利器があたっている。当時国内ではほとんど施工のなかったコンクリート造りに踏み切った施工者の先進性と決断が貴重な近代建築の記念碑となっている。
(看板資料より)