2025年11月29日
飯綱城は上田盆地の北の壁ににあたる太郎山の南山麓に張り出した飯綱山の頂部に築かれ、その形状から甲城とも呼称される。「宝永郡絵図」に「赤羽兵部城」と記載されるが詳らかではない。
本郭には60~70cmほどの平石が13個ほど、一定の間隔をもって対称形に並べられており、礎石であることは明瞭である。動かされた形跡もいくぶんみられ、時代の判然としない点もあるが、上田小県地方の山城で、これほど明瞭に礎石を残すものは、現在2,3しかみられず、その意味で貴重な遺構と言える。
本郭の南側には「小県郡史」(大正11年刊)に「年月を経る幾多自ら埋没の危に遭えども尚深き6尺もあらんか」と記された井戸跡がみられるが、現在は方2m、深さ30cmほどの小穴にすぎない。
北側の搦手の簡潔さに比べて大手と思われる南側の防御の固さは、太郎山麓上に築かれる11個ほどの城砦群中、上の部に属するものといえる。
戦国時代、葛尾城主の村上義清が太郎山を支配し、東の戸石城から西の和合城に至る間に村上連珠砦と称される城砦を構えたが、同城もこれにかかわるものと思われる。
(日本城郭大系より)
遺構などは判然としない普通の山城だと思っていたが、想像とは全く異なる本格的な山城でした。
15年以上前に訪れた時はまだ案内の看板もなく、ましてやGPSアプリなど利用していなかったので現場にたどり着くこともできないでいたが、今回は運良く道路も整備された時期だったこともあり本郭、二の曲輪、三の曲輪と全体を見ることができた。
残念だったのは事前の調査ができていなかったため、本郭の礎石やその南側の井戸跡を確かめることができなかったことです。今回はたどり着くこと自体が目的となってしまっていたため次回はそれらのことも頭の片隅に入れて訪れたいと思います。
飯綱城(主郭)
北側土塁前に二間✕三間の基礎状の石があり、幕末の絵図から神社社殿の痕跡と考えられる。
主郭北側尾根は2本の堀切(尾根を掘って高低差を作り、敵が登りにくくするもの)と兵の駐屯が可能な四の曲輪、土塁を配している。
主郭南側には虎口(出入口)がありその先には二方を土塁、東西に竪堀(尾根に垂直に堀り、敵の横移動を制限する)を配する場所があり、馬出しか、雨水を溜めた水の手と考えられる。
(看板資料より)

飯綱城(二の曲輪)
ここは飯綱城の二の曲輪と考えられ、天然の大きな岩(露頭)を利用している。
北の主郭との間には高低差10mの二重堀切があり、二の曲輪側はほぼ垂直に切り立っている。
二重堀切は東西で縦掘りとなり落ちている。
南側にある三の曲輪との間には岩盤を削った2本の堀切があり、その上の二の曲輪側面には石積が見られる。
曲輪部分は14m✕9m程度で北側にのみ土塁を構え、防御上の重要な拠点であるこほか、物見的な役割も果たしたとも考えられる。
(看板資料より)

飯綱城(三の曲輪)
この城は太郎山南山麓の飯綱山に築かれている。
村上氏、武田氏、真田氏の利用が考えられる。この山城群の中でも大規模で加工度が高く重要拠点と考えられる。
当曲輪のみ三方に腰曲輪群があり、所々に石積が残る。南側に二重堀切とその先にも堀切があり、その先に数弾の曲輪がある。
※腰曲輪:緩斜面を急斜面にし(切岸)、平坦部と急斜面を連続させ敵を登りにくくする。
(看板資料より)

飯綱城 / 横浜ラーメンさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
2009年10月04日

前回訪れた時は膝を痛めていて登ることができなかったので今回立ち寄りました。
前回同様車で行かれる所まで行きましたが、前回より更に道路が雑草等で埋れていました。
飯綱城への案内板のところから登って行きました。途中石垣跡のようなものがありました。

飯綱城は下の写真の中央付近の山頂付近と思われますが、そのやや下に見える鉄塔の所付近まで車で登り、そこから中央の山の左側に窪んでいる部分の尾根まで登り、そこから更に左側に登ろうとしたのですが急勾配で登ることができず、断念して下山してしまったのでした。
もう一度チャレンジして今度は右側に登ってみたいと思います。

2009年05月04日

戦国時代、葛尾城主の村上義清が太郎山を支配し、東の戸石城から西の和合城に至る間に村上連珠砦と称される城砦を構えたが、同城もこれにかかわるものと思われる。
(日本城郭大系より)
上田バイパスを走っていると大蔵京古墳の看板があるところを入ると豊秋霧原埜神社があります。
そこから林道があって登っていくと約2kmで突き当たります。中部電力が鉄塔を建てる際に資材などをヘリコプターで運ぶためにヘリポートを作ったのがその場所だそうです。
その少し手前右側の木に飯綱山(飯綱城址)と書かれた看板がありました。今回は足を痛めていたのでそこまでの調査でやめておきました。
最近のコメント