笄の渡し

2014年11月08日

時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22(1553)年4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れか別かれ城を後にしたのでした。
義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。
(看板資料より)


2003年09月22日

時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22(1553)年4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れか別かれ城を後にしたのでした。
義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。
(看板資料より)

国道18号線を長野方面に進むと苅屋原ミニパークというところがあります。駐車場があって車が止められるようになっていて自動販売機で缶ジュースを買うこともできます。
休憩できるところもあり、笄の渡しの説明板もあります。土手には石碑のようなものもいくつか立っており、ここら辺が笄(こうがい)の渡しなのだそうです。
この日も千曲川は水量が多く歩いて渡ることはちょっと無理ですね。

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