2015年05月03日
本郭と土塁

大井朝光の子孫大井美作守光照の子信広が、小県郡武石に居を移した。その子信定は和田に分かれて城を築いた。
天文14(1545)年頃、武石の大井信広が武田氏に降ったのち移ったものと思われる。しかし村上方に心を寄せた大井信定は、武田信玄に攻撃された。その状況を『高白斎記』にみてみよう。
天文22(1553)年7月25日、府中を発った信玄の軍勢は、28日内山へ入城し、30日には望月、8月の1日長窪へ到着し、すぐさま和田城の大井信定を攻めた。そのすざまじい戦闘で城主大井信定以下全員討死、和田城は陥落した。
(日本城郭全集より)

2007年10月07日

信定寺の方に場所を確認したらちょうど信定寺の裏であるとのことでした。裏山には墓地があるが右へ右へと進んでいけば良いと教えてくれました。
城跡までは彼は10分程度で行けるが初めての人が色々見てまわりながら行くと15分くらいでしょうとのことでした。
信定寺本堂の裏側にまわってみると確かに多くのお墓がありました。お墓はかなり奥のほうまでありました。
右へ右へということでしたので最初から右にだけ進んでいったら一番右側のお墓の方に行ってしまいました。
ちょうどお墓参りに来ていた人に和田城への行き方を聞いてみましたがお城があることも知らなかったようでした。
もうこうなったら手当り次第に上に進みました。迷路のようになっていましたがそのうちやっと墓域を脱出することができました。
その先はちゃんと歩道が整備されていて非常に歩きやすかったです。途中で2方向に分かれますが、右側の石尊神社方面に向えばOKです。帰りは反対側から帰ってくることができます。
神社を通過してもう幾つかの堀を越えて登ると、和田城と書かれた案内板がある場所にたどり着くことができます。祠もありここが多分本郭になるのだと思います。
説明板などは一切ありませんでした。更に奥に行ってみると幾つもの掘切りで区切られた郭がありました。
途中熊除けの鈴をつけた山菜取りの人たちが沢山いました。この先に何かあるのか聞いてみましたがだれも知らなそうだったので引き返すことにしました。

武田信玄が村上義清を坂城から追った後に、上杉方の援軍を得た村上軍が南下して再び坂城の葛尾城を奪還し塩田城にいることがわかると、武田軍は態勢を立て直して反撃に出ます。
その時に攻撃されたのが和田城や高鳥屋城などであるとのことですが、その和田城がこの城のことだと思います。また、大井信定と言う人の名前は初めて聞くのですが多分長窪城の大井貞隆などの大井一族と同族だったのかもしれません。