山家城(中入城)

2014年05月25日

本丸

長野県史跡 山家城跡
鎌倉時代に地頭の山家氏が築城したと伝えられる。
山家氏は元弘元(1331)年に徳雲寺を創建した神為頼(諏訪氏)の子孫が山家氏を称した。
文明12年に小笠原氏に叛いたため、小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたがこの戦い後諏訪山家氏は滅びている。その後、永正2年頃小笠原氏の同流である折野薩摩守昌治(折野山家氏)が播州から来てこの城にいたといわれている。天文19年武田信玄の府中侵攻の際自落した。
この城は遺構が大変見事に残っており秋葉神社のあるところが古く、主郭は東西約20m、南北約22mで周囲の土塁を取り巻く石垣は戦国時代末期の松本平の石垣技術の到達点を示している。この部分は天正10年以降に大きく改修さ
れたと推察される。
長野県を代表する山城として県史跡に指定されている。
(看板資料より)


本丸裏の土塁


本丸周辺の石積み


堀切


石積み


帯曲輪


堀切


秋葉神社


秋葉神社奥の帯曲輪


帯曲輪


麓の案内板

長野県史跡 山家城跡
山家城はふもとの徳雲寺(現徳運寺)と同時代の鎌倉時代の末期に構築されたと言われるが、以降戦国時代までの間改修を重ね、その規模が拡大複雑化している。
ことに戦国時代末期に林城にいた小笠原氏の属城となってから大改修がなされ山辺谷最深部の要害として、その偉容を誇っていたが武田信玄の侵攻により林城と共に落城している。
現在地名として「大手」「内城」等が、また土居、石垣、土壇の跡が残り、貴重な遺構となっている。
(看板資料より)


徳雲寺

松本市特別史跡 徳雲寺跡
徳雲寺は、元弘元(1331)年に山家郷の地頭である山家為頼が開創し雪村友梅の開山と伝えられる。雪村友梅はこの時、師である一山一寧が開山した諏訪郡の慈雲寺に住持していたが、山家氏の招きに応じ徳雲寺を開いた。雪村友梅は臨済宗の高僧で、幼少を鎌倉建長寺で一山一寧に師事し、18才で中国に学んだ。元朝廷から宝覚真空禅師の号を賜り帰国した。
徳雲寺は、その後衰えたが、永正年間(1504~1521)に折野氏が中興した。天正10(1582)年武田氏とともに折野氏が滅ぶと寺は廃絶した。文禄年間(1592~1596)に現在地に移って再興、また嘉永4(1851)年に焼失、安政元(1854)年に再建された。現在は徳運寺と改まり、曹洞宗となった。本尊の十一面観音は、毎年1月15日の厄除け参りには、大勢の人でにぎわう。
(看板資料より)


2004年06月19日

長野県史跡 山家城跡
山家城はふもとの徳雲寺(現徳運寺)と同時代の鎌倉時代の末期に構築されたと言われるが、以降戦国時代までの間改修を重ね、その規模が拡大複雑化している。
ことに戦国時代末期に林城にいた小笠原氏の属城となってから大改修がなされ山辺谷最深部の要害として、その偉容を誇っていたが武田信玄の侵攻により林城と共に落城している。
現在地名として「大手」「内城」等が、また土居、石垣、土壇の跡が残り、貴重な遺構となっている。
(看板資料より)


本丸裏手にあった石垣

麓の公民館で老人に場所を訪ねたら、徳運寺横から登っていくと水タンクがあるのでそこを更に登っていくと石垣のようなものが出てきて平らになっていて祠があり、10分くらいで行かれるとのことでした。
しかしその先にも道は続いており、雑草が生えていて道がよく分からないままどんどん登っていきました。
そのまま本丸らしきところに行けましたが、帰路道に迷ってしまいまったく違う谷に下りることになり大変な思いをしました。
登りは30分ほどでしたが、下りは1時間以上かかってしまいました。下りは慎重に降りてこないといけませんね。


徳雲寺

松本市特別史跡 徳雲寺跡
徳雲寺は、元弘元(1331)年に山家郷の地頭である山家為頼が開創し雪村友梅の開山と伝えられる。雪村友梅はこの時、師である一山一寧が開山した諏訪郡の慈雲寺に住持していたが、山家氏の招きに応じ徳雲寺を開いた。雪村友梅は臨済宗の高僧で、幼少を鎌倉建長寺で一山一寧に師事し、18才で中国に学んだ。元朝廷から宝覚真空禅師の号を賜り帰国した。
徳雲寺は、その後衰えたが、永正年間(1504~1521)に折野氏が中興した。天正10(1582)年武田氏とともに折野氏が滅ぶと寺は廃絶した。文禄年間(1592~1596)に現在地に移って再興、また嘉永4(1851)年に焼失、安政元(1854)年に再建された。現在は徳運寺と改まり、曹洞宗となった。本尊の十一面観音は、毎年1月15日の厄除け参りには、大勢の人でにぎわう。
(看板資料より)

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