楽厳寺城

2015年05月03日 土塁 文明年間から天文年間にかけて甲斐の武田氏が佐久に侵入し、地侍やこれを支援する村上氏と相争うに及んで脚光を浴びた城である。天文9年頃から武田氏の佐久侵入は激しさを加え、佐久の諸城は相次いで攻略… 続きを読む 楽厳寺城

釈尊寺

2015年05月03日 布引山釈尊寺「牛に引かれて善光寺参り」の伝説で知られる布引山釈尊寺は、神亀元(724)年の創建と伝えられています。天文17(1548)年、武田信玄が楽巖寺入道、布下仁兵衛を攻めたときに兵火にかかっ… 続きを読む 釈尊寺

武田信繁首塚

2015年05月03日 武田信繁の墓碑由来について永禄4年9月の川中島合戦は、信玄対謙信の最大の戦いで両軍とも有名な武将を多く失っている。信玄方の副大将であった信繁もこの激戦において戦死した。最後まで信繁のそばで奮戦した… 続きを読む 武田信繁首塚

小諸城

2015年05月03日 三の門 重要文化財 小諸城三の門(平成5年12月9日国指定)小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城しました。三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。し… 続きを読む 小諸城

耳取城

2009年05月05日 天文12~13(1543-1554)年頃、佐久は甲斐から侵入した武田氏の支配下に入ったが、耳取城主大井安満も武田氏に降っている。武田氏滅亡後は一時関東から入った北条氏に属したが、天正10(1582… 続きを読む 耳取城

玄江院

2009年05月05日 玄江院は、文正元(1466)年の創立にして、耳取白合の地にあり、臨済宗天竜山萬福寺と称し開基は鷹取城主大井貞隆、平賀城主大井貞親の2氏の建立による。天文21(1552)年、兵火の為焼亡せり。弘治元… 続きを読む 玄江院

森山城

2009年05月05日 天文9(1540)年から天文13年頃にかけて、佐久はおおむね、甲斐の武田氏に降るが、その中に森山成繁・満繁もいた。武田氏滅亡後、森山氏は、いち早く徳川家康の配下依田信蕃に従い、軍功を立てているが、… 続きを読む 森山城

正眼院

2009年05月05日 平原城探索の際車を止めさせてもらったのですがその後訪ねてみました。すると境内に平原氏の供養塔があるとのことで案内してもらいました。裏手にまわって入っていったらさきほど対応してくれた方が待っていてく… 続きを読む 正眼院

平原城

2009年05月05日 平原城が記録上はっきりしてくるのは平原全真からである。依田氏の系統に属するといわれる平原氏は、いつの頃からか上野に移り、後閑城にいたが、永正~大永年間の頃、村上義清の支援を得て平原に入ったのが平原… 続きを読む 平原城

富士見城

2009年05月05日 日本城郭大系によると、武田氏が小諸鍋蓋城を佐久の一基地とした時、その支城として築かれたものであろうか?とのことで立ち寄ってみました。住所が飯綱山だったので飯綱山公園を目指しました。小諸高原美術館の… 続きを読む 富士見城

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カテゴリー: 小諸市

堀ノ内城

2009年05月05日 「長野県町村誌」では諏訪刑部左衛門頼角の居城としており、一説では布引氏の詰城ともいわれている。布引氏の居館は西北西約2kmの断崖下にあり、天文~永禄年間、楽厳寺城主楽厳寺雅方と行動を共にした布下仁… 続きを読む 堀ノ内城