田代城

2014年01月04日 田代城は室町時代の山城で、自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は23,300平方メートルほどの広さをもち、南の方を表口としていた。城主は小田原北條氏の幕下にあっ… 続きを読む 田代城

胴塚

2014年01月04日 胴塚永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここか… 続きを読む 胴塚

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カテゴリー: 愛川町

首塚

2014年01月04日 首塚不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て… 続きを読む 首塚

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浅利明神

2014年01月04日 甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦して… 続きを読む 浅利明神

三増峠

2014年01月04日 三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越え、または三増通りの名がある。中世の頃は、信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉に向う古街道であった。永禄12(1569)年北条・武田両軍が戦っ… 続きを読む 三増峠

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志田峠

2014年01月04日 志田峠志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12(1569)年… 続きを読む 志田峠

旗立て松

2014年01月04日 旗立て松の由来永禄12(1569)年10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越… 続きを読む 旗立て松

三増合戦場

2014年01月04日 三増合戦のあらまし永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦… 続きを読む 三増合戦場

信玄道

2003年05月24日 愛川町役場の前を走っている道は、小田原城を囲んでいた武田軍が平塚から北上して三増峠へ向かって進んだ道で信玄道と言われているそうです。上の写真の場所は愛川町役場から少し南に行ったところです。