2012年05月04日 滝川助義の墓設楽原の合戦においては、織田信長麾下瀧川一益の旗本として左翼最前線で奮戦。また澤の尻の殿戦に於いては武田方笠井肥後守を討取り、信長公より感状、賜盃、銘照重の太刀を拝領するなど抜群の戦功… 続きを読む 滝川助義の墓
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岩手左馬之助の墓
2012年05月04日 『長篇長篠軍記』〈東弾正山の激戦、武田軍岡部盛久岩手胤秀戦死す〉より東弾正山へ押し寄せた徳川勢大須賀五郎左エ門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左エ門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎右エ門忠次、高力権左エ門… 続きを読む 岩手左馬之助の墓
岡部竹雲斎の墓
2012年05月04日 首洗い池の西北、道一つ離れた小高い丘の中裾に、向かって左手に岡部竹雲斎、右手に岩手左馬之助胤秀之墓が新たに設楽原をまもる会により建立された。岡部竹雲斎の戦死の地については、色々な説がある。『長篠戦… 続きを読む 岡部竹雲斎の墓
高森恵光寺快川の墓
2012年05月04日 現地には2つの墓碑があり、左のものは平成9年夏に作られたもので安山岩でできている。右のものは平成のはじめ、付近の田の中から出てきた花崗岩の不思議な石である。長い年月を経て、彫られた文字が消えている… 続きを読む 高森恵光寺快川の墓
鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え
2012年05月04日 鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え「よ」吉川より豊田藤助先に立ち 天正3(1575)年、長篠の戦い設楽原決戦の前夜、信長の命を受けた酒井忠次は三千人の兵で豊川を渡り、この吉川から松山峠を越えて長篠城の背後迄… 続きを読む 鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え
豊田藤助屋敷跡
2012年05月04日 天正3(1575)年、奥平貞昌(後に信昌)が城兵五百で守る長篠城は、一万五千余の武田軍に包囲され落城の危機にさらされていた。この長篠城を救援するために織田・徳川連合軍三万八千が連吾川の右岸、弾正山… 続きを読む 豊田藤助屋敷跡
君が臥床(和田兵部陣地)
2012年05月04日 飯田線長篠城駅を東に向かいすぐに右に曲がって川を渡り左折した後、更に橋を渡ってすぐに右折して町道大栗線を南下。すぐに左に上っていく道があるのでそこを進んで行ったところで人がいたので君が臥所の場所を… 続きを読む 君が臥床(和田兵部陣地)
設楽越中守陣地
2006年05月06日 と「樋田にて退路をたちし設楽貞通」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 設楽貞通は川路城主ですが、川路城はちょうど設楽原古戦場にある城です。長篠・設楽原古戦場の地元の武将ということですね。設楽… 続きを読む 設楽越中守陣地
伝武田諸将訣盃ノ池
2006年05月06日 ご夫人がやかんの水を冷しに来ていたのでお話を聞くことができました。伝武田諸将訣盃ノ池とは、設楽原での決戦の前に武田方の武将である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の4人が最後の盃を交わしたとこ… 続きを読む 伝武田諸将訣盃ノ池
小屋久保
2006年05月05日 む「村人はいくさをさけて小屋久保」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、織田・徳川軍が設楽原に進出してきた際、設楽原の住民には5人組でまとまって… 続きを読む 小屋久保
雁望山登り口
2006年05月05日 す「強右衛門のろしをあげし雁峰山」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 雁望山は鳥居強右衛門が狼煙をあげた山です。上の俳句の設楽原古戦場いろはかるた看板資料は丸山砦の北側と、羽柴秀… 続きを読む 雁望山登り口
虎之助の墓
2004年12月11日 人質 虎之助の墓(萩城主奥平周防勝次の男)作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の二男仙丸、日近城主奥平貞友の女於フウと共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が… 続きを読む 虎之助の墓
於フウの墓
2004年12月11日 人質 於フウの墓(日近城主奥平貞友の女)作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の次男仙丸、萩城主周防勝次の男虎之助と共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が徳川… 続きを読む 於フウの墓
奥平仙千代の墓
2004年12月11日 奥平貞能とその子貞昌(後の長篠城主)は元亀2(1571)年武田信玄に降伏したので、仙千代を武田方へ人質に出すことになった。天正元(1573)年になって貞能父子は武田氏にそむいて徳川家康についたので… 続きを読む 奥平仙千代の墓
武田諸将訣盃ノ跡
2004年12月11日 前回訪れたときは、設楽原歴史資料館で聞いた話ではこの武田諸将訣盃之跡には清水が流れているということだったのですが、下の写真の看板のところから少し入ったところまで行ってみたのですが清水らしきものを見… 続きを読む 武田諸将訣盃ノ跡
鳳来山東照宮
2004年09月20日 松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願して、家康が生まれたと伝えられ、その因縁により三代将軍家光が造営したもので、日本の三東照宮の一つとなっています。(看板資料より) 徳川三代将軍家光… 続きを読む 鳳来山東照宮
鳳来寺
2004年09月20日 本堂 鳳来寺はおよそ千三百年前に、利修仙人によって開かれ、大宝3(703)年に文武天皇から鳳来寺の名を賜って建立されたと伝えられている。以来広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し、大伽藍堂を寄… 続きを読む 鳳来寺
設楽原歴史資料館
2003年10月12日 設楽原史跡めぐりのポイント設楽原・長篠の史跡めぐりをする際の拠点及び情報収集の場としてまずこの設楽原歴史資料館に寄ることをお勧めします。新城市役所の方にも寄らせていただきましたが、文化財等に関する… 続きを読む 設楽原歴史資料館
八剱表激戦地
2003年10月12日 徳川家康本陣地から武田軍の陣地の方へ向かっていくと途中、東郷中学校の校庭の横に「八剱表激戦地」の看板がありました。家康物見塚より更に織田・徳川連合軍側に深く入り込んだところであり、こんなところで激… 続きを読む 八剱表激戦地
武田勝頼戦地本陣跡
2003年10月12日 天正3(1575)年5月、武田勝頼は織田、徳川連合軍との決戦を前に長篠の医王寺で軍議を開いた。多くの忠臣は決戦を回避すべしと進言したが、勝頼は聞き入れず寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地… 続きを読む 武田勝頼戦地本陣跡
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