2005年05月05日 牛久保城付近の古図 この地にあった牛久保城は、享禄2(1529)年一色城主牧野成勝が、今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く… 続きを読む 牛久保城
カテゴリー: 愛知県
信玄坑(津具金山)
2004年12月12日 元亀三年の頃より甲州武田信玄の勢力がこの地にも及びました。信玄は津具川に砂金の産することを知り採掘をしましたが、この山に金鉱脈を発見して、いくつかの坑道を掘りました。この坑道はその一つで総延長は1… 続きを読む 信玄坑(津具金山)
松永寺
2004年12月11日 烈士鳥居強右衛門勝商公 御木像 牛久保には鳥居強右衛門が磔にされている姿の木像が安置されているところがあるとのことでしたので寄ってみました。お寺から出てきた老婆に鳥居強右衛門の磔を見たい!と伝える… 続きを読む 松永寺
大聖寺
2004年12月11日 今川義元公墓所 市指定史跡戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3(1560)年5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負… 続きを読む 大聖寺
虎之助の墓
2004年12月11日 人質 虎之助の墓(萩城主奥平周防勝次の男)作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の二男仙丸、日近城主奥平貞友の女於フウと共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が… 続きを読む 虎之助の墓
於フウの墓
2004年12月11日 人質 於フウの墓(日近城主奥平貞友の女)作手亀山城主奥平貞能が、武田氏に属した時、貞能の次男仙丸、萩城主周防勝次の男虎之助と共に人質として甲州に差遺はされたが、天正元(1573)年、貞能親子が徳川… 続きを読む 於フウの墓
奥平仙千代の墓
2004年12月11日 奥平貞能とその子貞昌(後の長篠城主)は元亀2(1571)年武田信玄に降伏したので、仙千代を武田方へ人質に出すことになった。天正元(1573)年になって貞能父子は武田氏にそむいて徳川家康についたので… 続きを読む 奥平仙千代の墓
武田諸将訣盃ノ跡
2004年12月11日 前回訪れたときは、設楽原歴史資料館で聞いた話ではこの武田諸将訣盃之跡には清水が流れているということだったのですが、下の写真の看板のところから少し入ったところまで行ってみたのですが清水らしきものを見… 続きを読む 武田諸将訣盃ノ跡
鳳来山東照宮
2004年09月20日 松平広忠の夫人伝通院於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願して、家康が生まれたと伝えられ、その因縁により三代将軍家光が造営したもので、日本の三東照宮の一つとなっています。(看板資料より) 徳川三代将軍家光… 続きを読む 鳳来山東照宮
鳳来寺
2004年09月20日 本堂 鳳来寺はおよそ千三百年前に、利修仙人によって開かれ、大宝3(703)年に文武天皇から鳳来寺の名を賜って建立されたと伝えられている。以来広い信仰圏を持って栄え、源頼朝も厚く信仰し、大伽藍堂を寄… 続きを読む 鳳来寺
二連木城
2003年10月12日 元亀2(1571)年武田信玄は、三河に侵入して足助城、大沼城、田代城などの城を落としそのまま尾張に出撃する勢いでしたが、その後突然南下して菅沼定盈が守る野田城から吉田城へ向かいます。徳川家康は武田… 続きを読む 二連木城
設楽原歴史資料館
2003年10月12日 設楽原史跡めぐりのポイント設楽原・長篠の史跡めぐりをする際の拠点及び情報収集の場としてまずこの設楽原歴史資料館に寄ることをお勧めします。新城市役所の方にも寄らせていただきましたが、文化財等に関する… 続きを読む 設楽原歴史資料館
八剱表激戦地
2003年10月12日 徳川家康本陣地から武田軍の陣地の方へ向かっていくと途中、東郷中学校の校庭の横に「八剱表激戦地」の看板がありました。家康物見塚より更に織田・徳川連合軍側に深く入り込んだところであり、こんなところで激… 続きを読む 八剱表激戦地
武田勝頼戦地本陣跡
2003年10月12日 天正3(1575)年5月、武田勝頼は織田、徳川連合軍との決戦を前に長篠の医王寺で軍議を開いた。多くの忠臣は決戦を回避すべしと進言したが、勝頼は聞き入れず寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地… 続きを読む 武田勝頼戦地本陣跡
吉田城
2003年10月11日 吉田城略史当吉田城は、はじめ今橋城と称し永正2(1505)年、牧野古白によって構築された。以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国部将の攻防を経て天正18(1590)年に池田輝政が入封し、15… 続きを読む 吉田城
最近のコメント