2014年08月16日


「長篠役設楽原決戦場」の碑

ひ
「日は悲し、一五七五ぞと武田七九」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
天正3(1575)年5月21日は設楽原決戦に日であるが、現代風の陽暦に換算すると7月9日に相当する。5月21日というとカッコウの鳴き声が新緑の山々にこだまする初夏を思うけれども、実はクマゼミのかしましく鳴き出す盛夏の入口の7月9日だというわけである。事実設楽原決戦当日は梅雨明けの晴天だったと当時の記録に見えている。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)
2006年05月06日
「長篠役設楽原決戦場」の碑

東郷中学校の近く。
ここに立って武田側の陣地を見渡すと、山県の陣地の右側が大きくえぐれてしまっていました。地元の人に聞いてみると第二東名(実際はバイパス)の工事とのことでした。少しショックでしたが、逆に設楽原のど真ん中ではなく少し安堵しました。麓には決戦場の石碑があります。

2003年10月12日

ひ
「日は悲し、一五七五ぞと武田七九」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
徳川家康本陣地の反対側に位置し、下の写真のように見晴らしの良い場所です。
物見塚の下には竹広の激戦地があり、更にその先には山県昌景の陣地が見えます。
家康と武田軍との攻防の中で武田側の武将として活躍した山県昌景とこうやって対陣したのもまた宿命だったのでしょうか。
また、あらためて両軍の陣地の距離の近さを実感しました。
家康物見塚から武田軍の陣地を望む
