2025年11月29日
室賀氏は清和源氏信濃守源為公の次男為扶の三代後、盛快が名乗ったことから始まる。
和田義盛の乱で、室賀二郎盛快は北条泰時に組みして戦ったが討死した。永享12(1440)年、足利持氏の遺子を結城氏朝が助けて兵を挙げた。小笠原政康は室町幕府の命を受けてこれを追討した。
この時、信濃の諸氏に混じって室賀常陸入道、室賀紀伊守がある。
後、村上氏の族屋代美作守正重の次子信俊は、室賀氏への養子として入り山城守と名乗った。天文年間(1532-54)、武田氏へ降り、永禄10(1567)年、室賀山城守信俊は起請文を生島足島神社へ出している。
元亀3(1572)年、室賀信俊は長篠城を守り、天正3(1575)年、家康に攻められ長篠を開城して退散した。武田氏滅亡後、徳川氏に属し、幕府開幕後は旗本の列に加わった。
(日本城郭全集より)


笹洞城(室賀城) / 横浜ラーメンさんの活動データ | YAMAP / ヤマップ
2006年12月03日

「室賀温泉ささらの湯」で聞いた話によれば、室賀氏の本拠地であったと思われる室賀城は笹洞城というらしく、頂いた地図によると付近の水上神社の裏の方にあるように思われました。
車をささらの湯に止めたまま神社まで歩いて行ってみました。かなりの段数の階段を登り上に行ってみると神社の建物があり、その裏のほうにも行ってみましたがそれ以上奥に進むことは不可能のように思われました。
ささらの湯に戻ってから室賀氏居館跡である公民館に行ってみましたが、付近で作業中のご老人の話では公民館からもう少し奥に行った所から右側の山を眺めるとちょうど木が伐採されて禿山になっているところがあるのでそこが笹洞城跡であるとのことでした。
上まで行くことも不可能ではないとのことでしたが今回は居館跡から眺めるだけにしました。
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