2017年04月23日

春日城の沿革
天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。
城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増大す。
本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。その子但馬守重成が継ぎ更にその長子左衛門尉重親が継いだ。
この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。
弘治2年武田信玄のために斬られた郷士の中に春日河内守があるがこれは重親の子であろう。
後の城主春日河内守昌吉は高遠城主仁科盛信の麾下の将となる天正10年織田信忠の大軍の来攻に遭い城は悉く兵火に罹り炎上した。
昌吉は部下を引きつれ高遠城に参じ虎口の門を死守し討死し盛信と運命を共にした。
以来この城は再興の主がなく廃城となる。城郭は天然の辻岬を利用して築城したもので規模は宏大で、本丸、二の丸、三の丸は空掘によって分かれている周囲の北、東、南は渓にのぞんでおり西は大手の位置で曠野に接している。
城の東方には尾花が崎といい古来櫻の名所として知られている。
(石碑記載文章より)




2006年12月30日

春日城の沿革
天文の昔平氏の遺孫粟田口民部重吉の16代の後裔がこの地に来て城を築く。この城を春日城という。
城主は在名を氏とし伊那部大和守重慶といい、初め300貫文を領して10騎の将であったが次第に増大す。
本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。その子但馬守重成が継ぎ更にその長子左衛門尉重親が継いだ。
この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。
弘治2年武田信玄のために斬られた郷士の中に春日河内守があるがこれは重親の子であろう。
後の城主春日河内守昌吉は高遠城主仁科盛信の麾下の将となる天正10年織田信忠の大軍の来攻に遭い城は悉く兵火に罹り炎上した。
昌吉は部下を引きつれ高遠城に参じ虎口の門を死守し討死し盛信と運命を共にした。
以来この城は再興の主がなく廃城となる。城郭は天然の辻岬を利用して築城したもので規模は宏大で、本丸、二の丸、三の丸は空掘によって分かれている周囲の北、東、南は渓にのぞんでおり西は大手の位置で曠野に接している。
城の東方には尾花が崎といい古来櫻の名所として知られている。
(石碑記載文章より)
本丸からの南アルプス連峰
(左から甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳、間ノ岳)

北側の駐車場に車を止めて春日城址を訪れました。春日城址は城址公園としてきれいに整備されていました。駐車場から登っていって赤い本丸橋を渡ったところに春日城本丸の石碑が建っていました。今日はいい天気でしたのでこの本丸からは南アルプス連峰がきれいに見えました。

本丸から西側に向っていくと二の丸橋があり、更にその奥には三の丸橋があってその先は滑り台などがあって親子が遊んでいました。
それぞれの橋はそれぞれの曲輪を結んでおり、橋の下は空掘跡になっていて思ったより大きな規模の城でした。