松井田城

2014年11月23日 堀切 舌状にのびる尾根や峰続きを断ち切る目的で、鉈で切ったように堀を切った空掘を堀切りという。堀の断面はV字型である。山城に多く用いられ、敵の進攻を阻止するための防御線である。(看板資料より) 歩… 続きを読む 松井田城

安中城

2014年11月23日 碓井川・九十九川に挟まれた高さ数mの台上に築かれ、近年国道17号線が東北部を貫通してしまった。南側には安中の旧宿場町が中山道を挟んで東西に続く。ここはもと野尻と呼び、永禄2年に安中忠政が窪庭図書を… 続きを読む 安中城

桂昌寺

2014年11月23日 永正10(1504)年に安中忠親が開基となり、天陰玄鎖によって開かれた。「秋間志」では念空上人のために忠親が建立したとある。安中城の鬼門の方向に位置し、有事の際の砦の役割もあったと言われている。桂… 続きを読む 桂昌寺

久昌寺

2014年11月23日 本堂 開基は安中忠清、開山は月巣玄鶴とされ、大永5(1525)年に忠清が松井田城より現在の久昌寺の地に移って榎下城(鶴巻城)を築いた時に建立したと伝えられる。しかし「上野国郡村志」には忠清の開基、… 続きを読む 久昌寺

全性寺

2014年11月23日 永禄11(1568)年に松井田城が落城し、城主安中忠正(忠政)は自刃し、子の忠盛が父の菩提を弔うために忠正を開基、桂昌寺五世然室玄廓を開山として全性寺を建立したと伝えられる。(西上州の中世より) … 続きを読む 全性寺

長源寺

2014年11月23日 嘉吉3(1443)年に希明清良が開山、後閑城主依田信濃守政知(法名:長源寺殿大材全棟庵主)が開基とされ、後閑城主新田伊勢守信純が中興開基とされる。22世界瑞寅国の時に末寺門葉185ヶ寺の本寺として… 続きを読む 長源寺

成就院

2014年11月23日 成就院の由緒について慶安2(1649)年の「上野国碓井郡小日向村成就院由緒之事」には、開基の慶秀が七ヶ寺建立の大願を立て、六ヶ寺建立後の弘和元(1381)年に当寺を建立し、七ヶ寺の大願成就から成就… 続きを読む 成就院

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カテゴリー: 安中市

崇徳寺

2014年11月23日 暦応3(1340)年に円覚寺30世・建長寺40世の大喜法忻(仏満禅師)を開山、足利尊氏を開基と伝えている。大喜は今川基国の子で、弟子には五山文学を代表する義堂周信・絶海中津・中岩円月などがいる。示… 続きを読む 崇徳寺

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カテゴリー: 安中市

不動寺

2014年11月23日 開山の慈猛上人により寛文元(1243)年に開創されたと伝えられる。江戸時代には朱印89石6斗余りを拝領し、脇寺9ヶ寺・末寺8ヶ寺を有していた。山号を龍本山、院号を松井田院と号しているのは、ある夜、… 続きを読む 不動寺

補陀寺

2014年11月23日 美濃国の大泉山補陀寺の住職無極慧徹は師の最乗寺(神奈川県南足柄市)住職了庵慧明に会うため、寺を弟子の月江正文に譲り、最乗寺を目指す途中、松井田で熱心な信者に出会い、ここに止まり草庵を開くことになっ… 続きを読む 補陀寺

板鼻城

2014年11月23日 鷹の巣出丸 碓氷川と九十九川の合流点より約1km下流の北岸台地上に位置し、板鼻には東山道や鎌倉街道が通り、交通の要所として、戦略的にも重要な拠点であった。築城については確実な史料が乏しく、箕輪城主… 続きを読む 板鼻城

後閑城

2014年11月23日 九十九川と後閑川との合流地点の北岸舌状台地の丘陵先端部に立地する。現況は城址公園であるが、一部山林となっている。本丸(主郭)は標高は約276メートル、比高差約80メートルである。(安中市史より) … 続きを読む 後閑城

光城

2014年11月16日 光城址と古峯神社のゆかりこの山頂にお城が築かれたのは遠く500年余りの昔、戦国時代もまだまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の… 続きを読む 光城

広田寺

2014年11月16日 会田塚と虚空蔵山城 会田氏滅亡の際、一党の具足や刀剣が遺骸の代わりに埋められたと言われている。会田氏は天正10(1582)年10月、小笠原勢によって滅ぼされたが、その際焼き払われた菩提寺知見寺の住… 続きを読む 広田寺

虚空蔵山城

2014年11月16日 本丸 武田信玄が活躍していた頃、この虚空蔵山城の城主であった会田氏は、佐久郡望月の牧を中心に根を張って栄えた滋野氏の一派である海野氏の一族である。海野幸氏は小太郎といい、源頼朝に気に入られ海野の庄… 続きを読む 虚空蔵山城

洞光寺

2014年11月16日 本堂 太田弥助兄弟(中沢氏)の五輪石塔 2005年12月04日 薬師堂 旧四賀村役場(現在の松本市役所四賀支所)で四賀村誌を見せていただいたときに、洞光寺というところに苅谷原城の城主であった太田資… 続きを読む 洞光寺

苅谷原城

2014年11月16日 本丸 高白斎記によれば、武田信玄は天文22(1553)年3月29日に軍事拠点である深志城を出発し、午後には苅谷原城に着陣し、翌30日には城の周辺を放火し、4月1日の攻撃を経て2日午後には苅谷原城を… 続きを読む 苅谷原城

平瀬城

2014年11月16日 平瀬城について古代以降この地を領有し統轄してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に信府へ入る。信濃守護小笠原氏の信任あつく南北朝争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を供にしてくる。平瀬は小笠原… 続きを読む 平瀬城

法善寺

2014年11月16日 法善寺由緒法善寺は、元法相宗岩龍山西谷寺と称し、奈良興福寺の末寺と推定され、興福寺の前身山階寺の寺封「信濃二百戸」と新抄格勅符抄に載っている中の一ヶ所がこの西谷寺を中心とした地域であろうと見られて… 続きを読む 法善寺