新昌寺

2014年08月15日 由緒・山号には別に「鳥居山」もある。本尊は釈迦牟尼仏。・創建は天文8(1539)年長篠医王寺4世月傳太隋大和尚による。創建当時は「喜船庵」と称された。・天正3(1575)年の長篠合戦では、「喜船庵… 続きを読む 新昌寺

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和気善兵衛宗勝之墓

2014年08月15日 和気善兵衛宗勝の墓久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場… 続きを読む 和気善兵衛宗勝之墓

高坂又八郎助宣の墓

2014年08月15日 「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男… 続きを読む 高坂又八郎助宣の墓

松平伊忠戦死之地

2014年08月15日 「松平伊忠戦死之地」の碑は、昭和50年5月に、「三州長篠合戦記」により、有海字作神の257号道路の傍に建立された。戦勝した連合軍の中で、城主級武将で戦死したのは松平伊忠ただ一人である。家系を見ると… 続きを読む 松平伊忠戦死之地

山本信供戦死之地

2014年08月15日 平成7年9月、新城市大海字下林の旧伊那街道右道端に、設楽原をまもる会による高さ130センチ、幅20センチの「山本信供戦死之地」の石標が建ち、この地の奥に高さ76センチ、幅20センチの「山本勘介信供… 続きを読む 山本信供戦死之地

笠井肥後守満秀の墓

2014年08月15日 勝頼はせきたてられて第一線から離脱して橋詰まで来たが、疲れた馬は動かない。追手は迫ってくる。このとき旗本の中でも剛の者笠井肥後守満秀は自分の馬をすすめたが、勝頼は乗ろうとしない。追撃は急である。寸… 続きを読む 笠井肥後守満秀の墓

猿橋

2014年08月15日

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滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)

2014年08月15日 橋詰さんばし跡 わ「わが主君の身がわりとげし笠井肥後」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 天正3年5月21日長篠の役・設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されてい… 続きを読む 滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)

やすら姫の塚

2014年08月15日 愛知県鳳来町長篠、飯田線長篠城駅の東、前野という所に、やすら姫の塚がある。この塚の主、やすら姫は、長篠戦争の時の由緒ある落人の娘であると言い伝えられていた。ある日の暮れ方、塚の近くの家へ、この辺で… 続きを読む やすら姫の塚

百六岩

2014年08月15日 愛知県鳳来町名号の、三輪川を隔てた向かいの山に百六岩というところがあった。そこに長篠合戦の武田方の落人が、百六人隠れていた。織田方の追及が厳しくて、切腹したり、三輪川の荒神場という淵に飛び込んで死… 続きを読む 百六岩

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七人塚

2014年08月15日 愛知県鳳来町池場に七人塚と呼ばれる墓がある。長篠合戦の時、武田方の侍七人がやっとのことでここまで落ち延びて来た。これを見た百姓達が、竹槍でこの七人を殺してしまい、ここに埋めたので「七人塚」と呼ぶよ… 続きを読む 七人塚

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お菊大明神

2014年08月15日 長篠合戦の時、武田方に縁故があるお菊という若くて美しい娘がいた。お菊の恋人は戦いに敗れて、落ち延びたのでその後を追って、池場坂までやって来たが追いつけず、武田軍が再び三河に来ることを信じて、わび住… 続きを読む お菊大明神

蟻塚

2014年08月15日 史跡 蟻塚<所在地>鳳来町長篠字広面30番地<由来>長篠の戦いの戦死者を葬った所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し、蟻を封じたと伝えられている。<大き… 続きを読む 蟻塚

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姥ヶ懐(武田浪人組陣地、三枝兄弟の墓)

2014年08月15日 姥ヶ懐の地名は、日だまりの、姥の懐のように穏やかで暖かい地形を呼ぶとされ、この地特有の言葉ではないようである。このような所、低くて展望も十分でない。しかも上に登れば、いかにも砦にふさわしい鷹の松が… 続きを読む 姥ヶ懐(武田浪人組陣地、三枝兄弟の墓)

鳶ヶ巣山陣地

2014年08月15日 5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶ヶ巣砦方面の火の手と銃声に驚き本… 続きを読む 鳶ヶ巣山陣地