2013年08月01日 永禄年間(1558~1570)、飯田城主の坂西長忠と松尾城主の小笠原信貴との領地争いに端を発した紛争が続いた。永禄5(1562)年、坂西長忠が武田勝頼に謀反したとこにより紛争に拍車がかかった。9月… 続きを読む 御君地蔵
年: 2013年
小笠原家書院
2013年08月01日 旧小笠原家書院 この建築は伊豆木小笠原家の居館の一部です。伊豆木小笠原家は中世松尾に居城した松尾小笠原家の後裔です。慶長5(1600)年徳川家康より初代小笠原長巨が伊豆木において秣料千石を賜り、こ… 続きを読む 小笠原家書院
将軍塚
2013年08月01日 祭神は武田信玄公である。上洛の途次、病に犯され雄図空しく帰国の道中にて逝去された。信玄公の遺骸は、我等の先祖からの伝えによりますと密かに人跡未踏の土地へ運びこの土地(現在の横川)へ葬り給い、家臣原… 続きを読む 将軍塚
赤子ヶ淵
2013年08月01日 天正10(1582)年2月、織田信長は、宿敵甲斐の武田氏を討たんとして甲信攻略の兵を進めた。徳川家康との連合した大軍を進めて伊那谷へと侵入して来た。伊那の諸将中、南端に守備する吉岡城の下条氏、松尾… 続きを読む 赤子ヶ淵
清内路関所跡
2013年08月01日 清内路関所の変遷関所設置の時期については、「伊那郡郷村鑑」に来ノ地士原氏代々居住、永正年中(1504~20)原伝左衛門ハ下条家ヘ属ス。当御関所ハ弘治年中(1555~57)甲州武田晴信当国迄手ニ握リ… 続きを読む 清内路関所跡
大平神社
2013年08月01日 頭権現天正10年の頃、山伏姿の旅人が神坂峠を越えようとして園原に近い殿島という所に来ました。この時村の熊谷弁治という人が草刈りをしているのを見て道をたずねました。弁治は、その言葉が無礼なのを怒り持… 続きを読む 大平神社
妻女山
2013年07月21日 妻女山のご案内上杉本陣の妻女山の歴史永禄4(1561)年8月、上杉謙信は妻女山に1万3千の陣を置き、茶臼山・海津城の武田信玄の軍勢2万とにらみ合いを続けていた。9月になり、信玄の家来で軍師の山本勘… 続きを読む 妻女山
上杉謙信槍尻之泉
2013年07月21日 永禄4(1561)年川中島合戦の時、妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折、麓の会津比売神社(神社境内には「謙信鞍掛の松」がある)や岩野村にあった聖観音菩薩像(伝行基作… 続きを読む 上杉謙信槍尻之泉
地蔵寺
2013年07月21日 原大隅守の墓 『甲陽軍艦』では、永禄4(1561)年9月10日の第4回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗り込んだ上杉謙信に向け、鑓を繰り出し、信玄の窮地を救った人物として書かれている。同書に… 続きを読む 地蔵寺
桑山茂見の墓(狐丸塚)
2013年07月21日 桑山茂見は武田方の小笠原若狭守長詮の家臣である。永禄4(1561)年9月10日、霧の中での混戦と上杉軍の奇襲攻撃で、武田軍は武田典厩信繁、山本勘助、諸角豊後守が相次いで討死した。小笠原若狭守も三階… 続きを読む 桑山茂見の墓(狐丸塚)
松代城(海津城)
2013年07月21日 史跡松代城跡松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられ… 続きを読む 松代城(海津城)
典厩寺
2013年07月21日 山門 当寺は明応9(1500)年頃創られ、最初は瑠璃光山鶴巣寺と称していました。永禄4(1561)年9月10日、武田信玄・上杉謙信の一騎打ちで知られる第4回川中島合戦の際に、信玄の弟・武田典厩信繁… 続きを読む 典厩寺
山本勘助の墓
2013年07月21日 山本勘助(道鬼)墓山本勘助は、三河国(愛知県)の出身。26歳より諸国を巡り修業し、天文・兵法・剣術・築城術等武芸百般を体得。44歳にして武田信玄の軍師となり数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて… 続きを読む 山本勘助の墓
諸角豊後守の墓
2013年07月21日 諸角豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で武田家譜代の重臣として信虎・信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇は侍大将であった。また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた守役で先見… 続きを読む 諸角豊後守の墓
土屋右衛門尉昌次の碑
2013年07月07日 信玄の代よりの重臣、土屋昌次31歳は第2の馬防柵を突破し、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により討死した。碑は、盛土の上の台石にある。高さ133センチ、幅100センチの野面石であり、「土屋右衛門尉昌次… 続きを読む 土屋右衛門尉昌次の碑
首洗池
2013年07月07日 首洗い池は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、首や刀や武具などの血を洗い落としたといわれている。(東三河の史跡めぐりより) 国道151号線が古戦場を破壊してしまった。家康本陣から見ると山がえぐり取られてい… 続きを読む 首洗池
信玄塚
2013年07月07日 大塚 天正3(1575)年5月、戦いが終って、出沢の小屋久保に避難していた里人らは、帰ると累々と横たわる屍体の埋葬にあたった。この地に二つの塚があり、大塚は武田軍の、小塚は連合軍の戦没者葬ったもの… 続きを読む 信玄塚
原隼人佐昌胤之碑
2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑
馬防柵
2013年07月07日 設楽原決戦場祭りの当日、馬防柵周辺では地元の小学生や鉄砲隊などによる長篠・設楽原合戦の演舞が行われました。各方面から織田軍、徳川軍、武田軍に扮した小学生や中学生が集まり、鉄砲隊や馬に乗った子供たち… 続きを読む 馬防柵
阿弥陀橋跡
2013年07月07日 元亀3年12月三方原は武田徳川の両軍が合戦をしたが、徳川は武田に追われ小川に来てみると橋が焼けているので家康の臣が、中沢の常楽寺の仏像を持って来て橋をかけて難を逃れた。仏像は臣が常楽寺に返したが背… 続きを読む 阿弥陀橋跡
最近のコメント