妻女山

2013年07月21日 妻女山のご案内上杉本陣の妻女山の歴史永禄4(1561)年8月、上杉謙信は妻女山に1万3千の陣を置き、茶臼山・海津城の武田信玄の軍勢2万とにらみ合いを続けていた。9月になり、信玄の家来で軍師の山本勘… 続きを読む 妻女山

上杉謙信槍尻之泉

2013年07月21日 永禄4(1561)年川中島合戦の時、妻女山に陣を置いた上杉謙信は、戦いの勝利を神仏に祈願するため、時折、麓の会津比売神社(神社境内には「謙信鞍掛の松」がある)や岩野村にあった聖観音菩薩像(伝行基作… 続きを読む 上杉謙信槍尻之泉

地蔵寺

2013年07月21日 原大隅守の墓 『甲陽軍艦』では、永禄4(1561)年9月10日の第4回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗り込んだ上杉謙信に向け、鑓を繰り出し、信玄の窮地を救った人物として書かれている。同書に… 続きを読む 地蔵寺

典厩寺

2013年07月21日 山門 当寺は明応9(1500)年頃創られ、最初は瑠璃光山鶴巣寺と称していました。永禄4(1561)年9月10日、武田信玄・上杉謙信の一騎打ちで知られる第4回川中島合戦の際に、信玄の弟・武田典厩信繁… 続きを読む 典厩寺

山本勘助の墓

2013年07月21日 山本勘助(道鬼)墓山本勘助は、三河国(愛知県)の出身。26歳より諸国を巡り修業し、天文・兵法・剣術・築城術等武芸百般を体得。44歳にして武田信玄の軍師となり数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて… 続きを読む 山本勘助の墓

諸角豊後守の墓

2013年07月21日 諸角豊後守昌清(虎定)は武田信玄の曽祖父信昌の六男で武田家譜代の重臣として信虎・信玄の二代にわたり仕えた旗本五十騎持ちの剛勇は侍大将であった。また信玄の弟、典厩信繁を幼少時から支えてきた守役で先見… 続きを読む 諸角豊後守の墓

首洗池

2013年07月07日 首洗い池は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、首や刀や武具などの血を洗い落としたといわれている。(東三河の史跡めぐりより) 国道151号線が古戦場を破壊してしまった。家康本陣から見ると山がえぐり取られてい… 続きを読む 首洗池

投稿日:
カテゴリー: 新城市

信玄塚

2013年07月07日 大塚 天正3(1575)年5月、戦いが終って、出沢の小屋久保に避難していた里人らは、帰ると累々と横たわる屍体の埋葬にあたった。この地に二つの塚があり、大塚は武田軍の、小塚は連合軍の戦没者葬ったもの… 続きを読む 信玄塚

投稿日:
カテゴリー: 新城市

原隼人佐昌胤之碑

2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑

馬防柵

2013年07月07日 設楽原決戦場祭りの当日、馬防柵周辺では地元の小学生や鉄砲隊などによる長篠・設楽原合戦の演舞が行われました。各方面から織田軍、徳川軍、武田軍に扮した小学生や中学生が集まり、鉄砲隊や馬に乗った子供たち… 続きを読む 馬防柵

投稿日:
カテゴリー: 新城市

阿弥陀橋跡

2013年07月07日 元亀3年12月三方原は武田徳川の両軍が合戦をしたが、徳川は武田に追われ小川に来てみると橋が焼けているので家康の臣が、中沢の常楽寺の仏像を持って来て橋をかけて難を逃れた。仏像は臣が常楽寺に返したが背… 続きを読む 阿弥陀橋跡

長篠城

2013年07月06日 長篠城は豊川の上流、寒狭川(滝川)と大野川(三輪川)とが合流する地点の断崖絶壁の上にある。城址は現在愛知県南設楽郡鳳来町字長篠に存し東西およそ327メートル、南北約254メートルある。城の機構は「… 続きを読む 長篠城