2012年01月14日 足柄城は国境の城としての性格を持ち、本格的に築城工事が行われ、城としての形態が整えられたのは後北条氏の治世下である。その時期がいつかは不明だが、「相州古文書」に足柄城普請についての記事(天文24年… 続きを読む 足柄城
月: 2012年1月
全龍寺
2012年01月09日 武田信実(信虎七男)の長男である信俊は幕府旗本となったが、分家は川窪を称した。全龍寺は信俊六男の信通家の菩提寺で墓碑が四基残る。(甲斐の虎信玄と武田一族より)
平林寺
2012年01月09日 見性院の宝篋印塔 見性院は武田信玄の二女で武田家の有力武将である穴山信君(梅雪)の正室である。実名は定かではないが、法名を見性院殿高峯妙顕大姉という。梅雪の死後、夫梅雪と懇意であった家康に養われ、… 続きを読む 平林寺
本土寺
2012年01月09日 長谷山本土寺は、建治3(1277)年豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。本土寺は池上の「長栄山本門寺」、鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三… 続きを読む 本土寺
武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡
2012年01月08日 武田信道及び家臣供養塔 都史跡武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡甲州武田信玄の孫信道夫妻およびその子信正は、元和元(1615)年大久保長安の罪に連座して大島に配流された。この時8人の家臣が主に従… 続きを読む 武田信道および家臣供養塔並びに屋敷跡
心川関所跡
2012年01月01日 この奥100mのところに、心川関所跡があります。この関所は、弘治2(1556)年に戦国大名武田信玄によって設置され、その後、阿島の旗本知久氏が明治の初めまで代々管理してきました。当時この道は三州街… 続きを読む 心川関所跡
帯川関所跡
2012年01月01日 武田信玄西進にあたり、弘治2(1556)年遠州街道を押さえるため関所を作る。関所跡は前方右側の畑にあり、面積1畝18歩、江戸時代は知久氏預かり、明治2年廃止となる。(看板資料より) 関所は弘治2(… 続きを読む 帯川関所跡
駒場城
2012年01月01日 本城は中世に構築されたと言われる、戦国時代の遺構を残す「山城」である。城域は狭いが小高い独立線峰で、西側を除く三方向を遠方まで望見できる。また、交通の要所「駒場」を眼下に見る、戦略的に重要な位置を… 続きを読む 駒場城
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