2013年09月01日 信立寺は大永2(1552)年、身延山13世日傳上人が武田信虎の帰依を受けて建立した。上人はそのまま身延山には戻らずこの寺で亡くなったことから、久遠寺の隠居寺とも言われていた。寺の草創にはひとつの言… 続きを読む 信立寺
月: 2025年3月
愛宕神社
2013年09月01日 愛宕神社は明治以前には「愛宕権現(社)」「愛宕勝軍(大)権現」「愛宕勝軍地蔵権現」などと呼ばれていました。創祀年代は不明ですが、武田信玄の命令により、古府中の聖道小道路に躑躅ヶ崎館の鬼門守護のため… 続きを読む 愛宕神社
湯村山城
2009年12月29日 山頂付近 ①湯の島の上にある城は信守、信昌二代のうちに築いたという。山の上に水がある。②湯の島村の武田物見城という所に鎮守の金比羅神があるが、昔から玄法院(甲府市天神町)の持ち宮である。(山梨県の… 続きを読む 湯村山城
庄城稲荷大明神
2008年04月05日 庄城稲荷大明神は、約八百年の昔甲斐源氏の祖一条次郎忠頼が、一条の庄小山の地(現、舞鶴城)に館を築いて守護神として祀った社である。忠頼亡きあと、武田時代を経て、上、下の厚い信仰を得て徳川時代となり家… 続きを読む 庄城稲荷大明神
竜華院
2007年12月01日 龍華院の略由緒当山は吉国山龍華院と言い、一宮町中山廣厳院の末寺で、常法幢七ヶ寺の一つであり、本尊は華厳釈迦如来、左右は文殊菩薩、普賢菩薩である。寺記には、いにしえは真言宗、前附山大祥寺と言い、弘法… 続きを読む 竜華院
実際寺
2007年12月01日 この寺の境内は天文年中(1532~55)の下曽根中務大輔賢範の居館の跡だという。今も境内から民有地に至る7,80間に堀や土塁を構えた跡が残っている。賢範は武田信重の庶男8代奴白の弟である。その後、… 続きを読む 実際寺
五味塚
2007年12月01日 朝一番で訪れたのが五味塚でした。甲斐国志によるとこの地名は五味氏の拠る所によってつけられたとのことでした。旧中道町の中畑あたりにあるとのことでカーナビにセットして現地に向いましたがなかなか見つける… 続きを読む 五味塚
一条右衛門太夫信竜屋敷跡
2007年10月28日 信虎の七男(実は八男)。信玄の異母弟。信竜は、甲斐源氏の名門一条氏の名跡を継ぎ、本拠地を上野城(市川三郷町)に置いたという。武田氏の一門衆(御親類衆)として、100騎を引率し、信濃の豪族青柳・与良… 続きを読む 一条右衛門太夫信竜屋敷跡
山本勘助晴幸屋敷跡
2007年10月28日 三河国牛窪出身の浪人で、諸国を遍歴し兵法や築城術を会得したが、隻眼となり、片足も不自由になったという。天文5(1536)年に、駿河国今川義元に仕官しようとするが、実現しなかった。天文12(1543… 続きを読む 山本勘助晴幸屋敷跡
真田源太左衛門尉信綱屋敷跡
2007年10月28日 真田幸隆の嫡男で、元亀元(1570)年ごろに父の跡を継ぎ、真田氏の当主となった。信玄の命により、永禄10(1567)年、父幸隆とともに上野国白井城を攻略し、箕輪城に入って、その増強を行っている。ま… 続きを読む 真田源太左衛門尉信綱屋敷跡
土屋右衛門尉昌続屋敷跡
2007年10月28日 武田氏の譜代家老で、もとは金丸平八郎と称した。西郡の豪族金丸虎義の次男で、信玄の奥近習6人に抜擢される。永禄4(1561)年9月の川中島の戦いでは、本隊の信玄を警固して動じなかったことから名族土屋… 続きを読む 土屋右衛門尉昌続屋敷跡
小山田左兵衛尉信茂屋敷跡
2007年10月28日 小山田氏は、武田家の一門衆(御親類衆)の待遇を受けた名族で、中津森(後に谷村)に館を構えて、都留郡を支配した強豪であった。信茂は、兄弥三郎信有が、永禄8(1565)年8月に病没したため、家督を相続… 続きを読む 小山田左兵衛尉信茂屋敷跡
武田刑部少輔信廉屋敷跡
2007年10月28日 信虎の三男(実は四男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は孫六で、元服して刑部少輔の官途を称した。兄信繁とともに、信玄を支え、信濃深志城代や高遠城代を歴任したとい… 続きを読む 武田刑部少輔信廉屋敷跡
横田備中守高松屋敷跡
2007年10月28日 伊勢国出身と伝わる。騎馬30騎、足軽百人を率いる足軽大将として、武田信虎・信玄2代の重要な作戦のうち、34度に参加し、そのため全身に31ヶ所の疵痕があったと伝わる。天文15(1546)年8月、信玄… 続きを読む 横田備中守高松屋敷跡
三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡
2007年10月28日 三枝氏は、古代以来の甲斐土着の豪族で、鎌倉時代に入って、甲斐源氏の勢力下に入った。守友といわれるが、実名は昌貞が正しい。父土佐守虎吉とともに、信玄に仕え、守友は奥近習6人の1人に抜擢された。その後… 続きを読む 三枝勘解由左衛門尉守友屋敷跡
原隼人佑昌胤屋敷跡
2007年10月28日 信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、信玄に登用された。武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じされたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の… 続きを読む 原隼人佑昌胤屋敷跡
内藤修理亮昌豊屋敷跡
2007年10月28日 武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6(1563)年ごろ、信濃国深志城(現在… 続きを読む 内藤修理亮昌豊屋敷跡
板垣駿河守信方屋敷跡
2007年10月28日 武田氏の譜代家老で、両職という最高職に就任していた重臣。板垣氏は甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。天文9(1540)年4月、信方は信濃佐久郡侵攻を信虎に命じられ、臼田・入沢城など数十… 続きを読む 板垣駿河守信方屋敷跡
穴山玄蕃頭信君屋敷跡
2007年10月28日 穴山氏は、甲斐源氏の支流で、穴山を本拠地にしつつ、河内領(南巨摩郡一帯)を支配した強豪。信君は、穴山信友の子で、生母は信玄の姉南松院殿、正室は信玄の息女見性院殿であり、極めて重用されたことがわかる… 続きを読む 穴山玄蕃頭信君屋敷跡
高坂弾正忠昌信屋敷跡
2007年10月28日 高坂弾正の名で知られるが、実際には香坂弾正忠虎綱、後に本性に戻って春日虎綱と称している。石和の大百姓春日大隈の子で、天文11(1542)年に信玄に見出されて近習となり、その後使い番を経て、天文21… 続きを読む 高坂弾正忠昌信屋敷跡