飯田河原合戦供養板碑

2005年01月09日

板碑(いたび)は板状の石を用いて頂を三角形にした石塔婆の一種で鎌倉時代から供養のため多く建立され碑の高さは1.05メートル、幅0.1メートル。材石は安山岩で台石の上に建ち、碑面の上部に伝の種子(しゅじ)を刻み下部には銘文が刻まれているが、風化磨滅が著しい。しかし「天永6(1526)9月」の文字が確認できる。「甲斐国志」に武田信虎が飯田河原合戦の後、戦死者供養のため建立したものと伝えられる室町時代の石造遺品である。
(看板資料より)

八幡神社

由緒
この八幡神社は奈良朝時代の末、神護景雲2年3月中5日(約1200年前)に勧請鎮座され県内でも古い神社の一つである。甲斐国主武田氏とっての家臣土屋氏が世々崇敬し其の後織田氏、徳川氏の崇敬厚く祭儀も厳重であった。7月15日の大祭(祗園祭)には神領内八幡川及び荒川の川除場へ神幸し水防の祈祷が行われ島上条の氏神の氏神として家内安全、家業繁栄、五穀豊穣、養蚕、商業、工業等等殖産の守護神として崇敬され今日に至っている。
(石碑記載文章より)

甲府敷島韮崎線を甲府方面に進み、黄梅院をすぎて少し行ったところの左側に八幡神社があります。飯田河原合戦供養板碑はこの八幡神社の境内にありました。

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