蓮朝寺

2014年07月12日

原加賀守昌俊公の墓

原加賀守は、甲斐の国主・武田家の譜代家老として信虎、信玄の2代に仕えた武田家の重臣で、ことに陣場奉行としてその重責を果す。
天文18(1549)年に身延山より蓮朝の法名を受け、当山を菩提所として開創し、原一党の帰依処とする。家督を継いだ隼人佑昌胤は武田二十四将の1人として名を残す。
(看板資料より)


弁財天


2007年12月01日

蓮朝寺に原加賀守昌俊公の墓があるとのことで立ち寄りました。
お墓を探す際の原則に従って本堂の左側から裏のほうにまわり込んでみたらすぐに見つけることができました。
きれいに整備されたお墓でした。更に説明文が書かれた案内板もありました。
その後お話を聞くため本堂横の建物の呼び鈴を鳴らしてみるとご婦人が対応してくれましたがその後ご住職が直々に対応してくれました。
お話によると、お墓のところに書いてあること以上のことは残っていないとのことでした。
原昌俊公が開基した寺であることは間違いないとのことで、原昌俊公は日蓮宗に帰依し身延山から蓮朝という法名を頂いているとのことでした。
もともとここに存在した真言宗のお寺を改宗して原昌俊公が開基となったのか、それともまったく新しくお寺を興したのか不明とのことでした。
笛吹川の水害で何度も被害にあっているとのことでお墓についても水害の後にもともとあった場所とは違う場所に整備されたものであるとのことでした。
お寺には記録は残っていないとのことでしたが、別の記録によると、武田勝頼の時代には、この周辺一帯で狩りをしてはいけない旨の禁制が出されているとのことで広大な土地であったのではないかとのことでした。
また身延山17世から戒名曼陀羅が納められていたとのことでもしこれが残っていれば原氏の家系が明らかになっていたのではないかとのことでした。
今年の大河ドラマには登場していませんが、18年前の大河ドラマ「武田信玄」では陣場奉行として小林克也が演じていましたが、その時には多くの人がこの蓮朝寺を訪れたとのことでした。
原昌俊の後を継いだ原昌胤は長篠・設楽原で戦死し現地に墓がありますが、ご住職のお話ではきっと蓮朝寺にも彼のお墓もあったのではないかとのことでした。長い時間色々なお話を聞かせて頂きました。


原加賀守昌俊公の墓

原加賀守は、甲斐の国主・武田家の譜代家老として信虎、信玄の2代に仕えた武田家の重臣で、ことに陣場奉行としてその重責を果す。
天文18(1549)年に身延山より蓮朝の法名を受け、当山を菩提所として開創し、原一党の帰依処とする。家督を継いだ隼人佑昌胤は武田二十四将の1人として名を残す。
(看板資料より)

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