2014年08月16日 か「勘蔵はこの地に死して名を残す」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 山本信供の墓信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘介晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれ… 続きを読む 傳山本勘蔵信供之墓
史跡一覧
勝楽寺
2014年08月16日 本堂 当山は大本山に永平寺を仰ぐ六百余年の曹洞禅寺で、永平寺十四世勅賜直指円性禅師が幼少から御修行なされた名刹で、その因縁によって「出世観音様」をお祀している。三世玄賀和尚は、名僧の誉高く家康の遠… 続きを読む 勝楽寺
上州沼田産矢立硯発見地
2014年08月16日 上州産「矢立硯」の発見場所昭和39年春、この看板の位置より60メートル程南の下流に堰堤が造られたが、その工事中に青みがかった小さな硯が発見された。縦116ミリ、横29ミリ、厚さ12ミリの細長い形で… 続きを読む 上州沼田産矢立硯発見地
樋口下総守兼周の墓
2014年08月16日 樋口兼周のものとされる碑は、大きな緑色片岩を土台に、30cm余りの一石五輪と、今一つ五輪の頭だけの石と共に据えられ、浅谷墓地の登り口に建てられている。地元で庚申坂と呼ぶ旧道傍で四ツ目垣に囲まれ、碑… 続きを読む 樋口下総守兼周の墓
鳥居強右衛門磔死之碑
2014年08月15日 天正3(1575)年5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となっ… 続きを読む 鳥居強右衛門磔死之碑
新昌寺
2014年08月15日 由緒・山号には別に「鳥居山」もある。本尊は釈迦牟尼仏。・創建は天文8(1539)年長篠医王寺4世月傳太隋大和尚による。創建当時は「喜船庵」と称された。・天正3(1575)年の長篠合戦では、「喜船庵… 続きを読む 新昌寺
鳥居強右衛門の碑
2014年08月15日 2012年05月04日 鳥居強右衛門勝商の碑天正3年5月、武田軍に包囲された長篠城を抜け、岡崎の家康に救援を求めての帰路この地で捕らわれ磔にされた。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 鳥居強右衛門… 続きを読む 鳥居強右衛門の碑
和気善兵衛宗勝之墓
2014年08月15日 和気善兵衛宗勝の墓久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場… 続きを読む 和気善兵衛宗勝之墓
高坂又八郎助宣の墓
2014年08月15日 「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男… 続きを読む 高坂又八郎助宣の墓
横田十郎兵衛康景之碑
2014年08月15日 設楽原決戦では勝頼本営に配置さた足軽大将で騎馬30騎(足軽100人)。横田備中守の嗣。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 新昌寺前から北へ300メートル。道路から右に10メートル入った民家の庭先に… 続きを読む 横田十郎兵衛康景之碑
小山田五郎兵衛昌晟之墓
2014年08月15日 小山田五郎兵衛昌晟は、武田本隊が設楽原出撃後の長篠城監視隊。以前は船戸18の畑で、五輪塔が横にあった。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 天正3年5月20日、武田勝頼が設楽原へ進撃した道筋を『設楽… 続きを読む 小山田五郎兵衛昌晟之墓
松平伊忠戦死之地
2014年08月15日 「松平伊忠戦死之地」の碑は、昭和50年5月に、「三州長篠合戦記」により、有海字作神の257号道路の傍に建立された。戦勝した連合軍の中で、城主級武将で戦死したのは松平伊忠ただ一人である。家系を見ると… 続きを読む 松平伊忠戦死之地
山本信供戦死之地
2014年08月15日 平成7年9月、新城市大海字下林の旧伊那街道右道端に、設楽原をまもる会による高さ130センチ、幅20センチの「山本信供戦死之地」の石標が建ち、この地の奥に高さ76センチ、幅20センチの「山本勘介信供… 続きを読む 山本信供戦死之地
笠井肥後守満秀の墓
2014年08月15日 勝頼はせきたてられて第一線から離脱して橋詰まで来たが、疲れた馬は動かない。追手は迫ってくる。このとき旗本の中でも剛の者笠井肥後守満秀は自分の馬をすすめたが、勝頼は乗ろうとしない。追撃は急である。寸… 続きを読む 笠井肥後守満秀の墓
猿橋
2014年08月15日
滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)
2014年08月15日 橋詰さんばし跡 わ「わが主君の身がわりとげし笠井肥後」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 天正3年5月21日長篠の役・設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されてい… 続きを読む 滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)
やすら姫の塚
2014年08月15日 愛知県鳳来町長篠、飯田線長篠城駅の東、前野という所に、やすら姫の塚がある。この塚の主、やすら姫は、長篠戦争の時の由緒ある落人の娘であると言い伝えられていた。ある日の暮れ方、塚の近くの家へ、この辺で… 続きを読む やすら姫の塚
百六岩
2014年08月15日 愛知県鳳来町名号の、三輪川を隔てた向かいの山に百六岩というところがあった。そこに長篠合戦の武田方の落人が、百六人隠れていた。織田方の追及が厳しくて、切腹したり、三輪川の荒神場という淵に飛び込んで死… 続きを読む 百六岩
七人塚
2014年08月15日 愛知県鳳来町池場に七人塚と呼ばれる墓がある。長篠合戦の時、武田方の侍七人がやっとのことでここまで落ち延びて来た。これを見た百姓達が、竹槍でこの七人を殺してしまい、ここに埋めたので「七人塚」と呼ぶよ… 続きを読む 七人塚
お菊大明神
2014年08月15日 長篠合戦の時、武田方に縁故があるお菊という若くて美しい娘がいた。お菊の恋人は戦いに敗れて、落ち延びたのでその後を追って、池場坂までやって来たが追いつけず、武田軍が再び三河に来ることを信じて、わび住… 続きを読む お菊大明神
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