2014年09月14日 東照権現 谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)として築城されたこの勝山城址には、現在なお、曲輪・堀・石垣・土塁など、多くの遺構が認められる。曲輪は山頂の平坦地(本丸跡)を中心にして、北・東・南… 続きを読む 勝山城
史跡一覧
長生寺
2014年09月14日 長生寺の中雀門 長生寺は、寺記によれば、文明元(1469)年8月9日甲斐国守護武田信昌により寺領20石、山林境内1万5千坪が寄進され創立。開山は鷹岳宗俊禅師である。また、永正9(1512)年中興開… 続きを読む 長生寺
用津院
2014年09月14日 文明6(1474)年、開山鷹岳宗俊によって創建された向富山用津院の開基は、小山田耕雲と伝わる。これは森嶋本『甲斐国志草稿』の記述と一致する。実際、「耕雲」という人物が、用津院開山の時代に寺領寄進を… 続きを読む 用津院
宝林寺
2014年09月14日 笠原夫人の墓 五輪塔ノ由来 武田信玄合戦記天文16(1547)年、武田ノ攻ニ屈シタ信州志賀城主笠原新三郎ハ従ハザルヲ得ナカッタ其ノ夫人21才賢才ニシテ美貌ノ誉高ク武田方ノ噂ニ登ッタ。小山田殿、夫人… 続きを読む 宝林寺
岩殿城
2014年09月14日 明治12年に乃木希典が岩殿山に登っているが、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」と感嘆したという。 岩殿山歴史景観保存地区岩殿山は、山体に円礫岩の巨大な鏡岩があり、暖帯林と温帯林の混交する場所です。戦… 続きを読む 岩殿城
林泉寺
2014年08月24日 惣門 上杉謙信公によって春日山城から移築された往時を今に伝える唯一の門。(パンフレット資料より) 明応6(1497)年、上杉謙信公の祖父越後守護代長尾能景公が、父重景公の17回忌にあたり、越後鎮護… 続きを読む 林泉寺
春日山城
2014年08月24日 本丸 春日山城上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。その後、謙信公の父為景公、謙信公、景勝公の三代にわたり普請に務め、現在… 続きを読む 春日山城
織田信長本陣・極楽寺跡
2014年08月16日 ゑ「絵図ひらき軍議かさねし極楽寺」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) て「手振りよくおどる酒井のえびす舞」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 三州長篠合戦記によれば、合戦直前の織田・徳… 続きを読む 織田信長本陣・極楽寺跡
真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
2014年08月16日 み「三子山に真田兄弟の墓ならぶ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで… 続きを読む 真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
堀無手右衛門之墓
2014年08月16日 郷土史家牧野文斎は、その著書『設楽原戦史考』の彼我の戦死者の考証の中で「真偽決しがたく、また洩れたる分少なからず、否認すべきもの左の諸氏あり」として、堀無手右エ門の設楽原における戦死を否定している… 続きを読む 堀無手右衛門之墓
望月甚八郎重氏の墓
2014年08月16日 望月氏は遠江守昌頼の時代、天文11年9月20日武田信玄の佐久侵攻の際ほぼ全滅したという。当主昌頼は逃れ、家の再興をはかったが2~3年後には消息を絶ってしまう。わずかに布引山に立てこもった庶流の望月… 続きを読む 望月甚八郎重氏の墓
土屋備前守直規の墓
2014年08月16日 土屋備前守直規(貞綱ともいう)は、今川家の家臣岡部一族の出身で岡部忠兵衛といった。戦国時代の岡部氏は朝日山城(藤枝)を居城として今川家の中でも重きをなしていたという。この頃の当主岡部正綱は今川家滅… 続きを読む 土屋備前守直規の墓
川窪備後守詮秋の墓
2014年08月16日 「参河国名所図会」に武田戦死者として川窪備後の名が見られる。また一級資料である「信長公記」の中にも、討ち捕る頸の見知分として山県・馬場などの武将とともに川窪備後詮秋がある。「長篠実戦記」でも、甲州… 続きを読む 川窪備後守詮秋の墓
五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)
2014年08月16日 かるたでつづる設楽原古戦場によれば、五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方の浪人組の将として鳶ヶ巣方面の5つの陣地のひとつである中山砦に名和無理之助らとともに布陣した。しかし5月21… 続きを読む 五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)
甲田
2014年08月16日 長篠合戦余話によると、設楽原合戦で武田方の敗色が濃くなり、側近や馬場信房らに退却を勧められ、とうとう武田勝頼も退却を決意し、武田家重代の諏訪法性の甲を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせた。伝右衛門は敵の… 続きを読む 甲田
武田勝頼観戦地(才の神)
2014年08月16日 連吾川沿いの馬防柵の構築など、次々と織田・徳川軍の動向を伝える知らせの中で、勝頼は19日設楽原進出を決定した。そして翌20日には、寒狭川を渡り有海原から信玄台地一帯に陣を敷いた。このあたりは雁峰山… 続きを読む 武田勝頼観戦地(才の神)
信玄祖師堂跡
2014年08月16日 め「冥福を祈る武将の慰霊碑」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 想像を越えたおびただしい戦死者の姿は、戦いのむごたらしさと共に人の命のはかなさを、無言のうちに人々に語りかけるのであった。戦い… 続きを読む 信玄祖師堂跡
内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)
2014年08月16日 甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年… 続きを読む 内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)
山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
2014年08月16日 信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小… 続きを読む 山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
柳田前激戦地
2014年08月16日 ぬ「ぬかるみに馬もしりごむ連吾川」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、合戦当時連吾川周辺は水田や泥深い沼田であり既に田植えが終わっており一面は水がたたえら… 続きを読む 柳田前激戦地
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