2014年08月16日 樋口兼周のものとされる碑は、大きな緑色片岩を土台に、30cm余りの一石五輪と、今一つ五輪の頭だけの石と共に据えられ、浅谷墓地の登り口に建てられている。地元で庚申坂と呼ぶ旧道傍で四ツ目垣に囲まれ、碑… 続きを読む 樋口下総守兼周の墓
史跡一覧
真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
2014年08月16日 み「三子山に真田兄弟の墓ならぶ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 設楽郡富永庄浅木村三子山の最東端の山腹に、真田一族の墓所がありけるを訪づれたれば、果して上手の段に土饅頭へ荊棘の纏りもせで… 続きを読む 真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
堀無手右衛門之墓
2014年08月16日 郷土史家牧野文斎は、その著書『設楽原戦史考』の彼我の戦死者の考証の中で「真偽決しがたく、また洩れたる分少なからず、否認すべきもの左の諸氏あり」として、堀無手右エ門の設楽原における戦死を否定している… 続きを読む 堀無手右衛門之墓
望月甚八郎重氏の墓
2014年08月16日 望月氏は遠江守昌頼の時代、天文11年9月20日武田信玄の佐久侵攻の際ほぼ全滅したという。当主昌頼は逃れ、家の再興をはかったが2~3年後には消息を絶ってしまう。わずかに布引山に立てこもった庶流の望月… 続きを読む 望月甚八郎重氏の墓
土屋備前守直規の墓
2014年08月16日 土屋備前守直規(貞綱ともいう)は、今川家の家臣岡部一族の出身で岡部忠兵衛といった。戦国時代の岡部氏は朝日山城(藤枝)を居城として今川家の中でも重きをなしていたという。この頃の当主岡部正綱は今川家滅… 続きを読む 土屋備前守直規の墓
川窪備後守詮秋の墓
2014年08月16日 「参河国名所図会」に武田戦死者として川窪備後の名が見られる。また一級資料である「信長公記」の中にも、討ち捕る頸の見知分として山県・馬場などの武将とともに川窪備後詮秋がある。「長篠実戦記」でも、甲州… 続きを読む 川窪備後守詮秋の墓
五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)
2014年08月16日 かるたでつづる設楽原古戦場によれば、五味貞氏は越前の浪人で、長篠・設楽原合戦の際は武田方の浪人組の将として鳶ヶ巣方面の5つの陣地のひとつである中山砦に名和無理之助らとともに布陣した。しかし5月21… 続きを読む 五味与左衛貞氏の墓(傳五味與惣兵衛貞氏之墓)
甲田
2014年08月16日 長篠合戦余話によると、設楽原合戦で武田方の敗色が濃くなり、側近や馬場信房らに退却を勧められ、とうとう武田勝頼も退却を決意し、武田家重代の諏訪法性の甲を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせた。伝右衛門は敵の… 続きを読む 甲田
土屋右衛門尉昌次の碑
2013年07月07日 信玄の代よりの重臣、土屋昌次31歳は第2の馬防柵を突破し、第3の柵に辿りついた時、鉄砲により討死した。碑は、盛土の上の台石にある。高さ133センチ、幅100センチの野面石であり、「土屋右衛門尉昌次… 続きを読む 土屋右衛門尉昌次の碑
武田勝頼観戦地(才の神)
2014年08月16日 連吾川沿いの馬防柵の構築など、次々と織田・徳川軍の動向を伝える知らせの中で、勝頼は19日設楽原進出を決定した。そして翌20日には、寒狭川を渡り有海原から信玄台地一帯に陣を敷いた。このあたりは雁峰山… 続きを読む 武田勝頼観戦地(才の神)
信玄祖師堂跡
2014年08月16日 め「冥福を祈る武将の慰霊碑」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 想像を越えたおびただしい戦死者の姿は、戦いのむごたらしさと共に人の命のはかなさを、無言のうちに人々に語りかけるのであった。戦い… 続きを読む 信玄祖師堂跡
首洗池
2013年07月07日 首洗い池は、別名「太刀洗池」と呼ばれ、首や刀や武具などの血を洗い落としたといわれている。(東三河の史跡めぐりより) 国道151号線が古戦場を破壊してしまった。家康本陣から見ると山がえぐり取られてい… 続きを読む 首洗池
岩手左馬之助の墓
2012年05月04日 『長篇長篠軍記』〈東弾正山の激戦、武田軍岡部盛久岩手胤秀戦死す〉より東弾正山へ押し寄せた徳川勢大須賀五郎左エ門康高、菅沼藤蔵定政、三宅惣左エ門康定、菅沼小大膳定利、戸田三郎右エ門忠次、高力権左エ門… 続きを読む 岩手左馬之助の墓
岡部竹雲斎の墓
2012年05月04日 首洗い池の西北、道一つ離れた小高い丘の中裾に、向かって左手に岡部竹雲斎、右手に岩手左馬之助胤秀之墓が新たに設楽原をまもる会により建立された。岡部竹雲斎の戦死の地については、色々な説がある。『長篠戦… 続きを読む 岡部竹雲斎の墓
内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)
2014年08月16日 甲斐の国主武田勝頼公は天正3年ここ設楽原で織田徳川連合軍と壮絶な戦いを繰り広げた。同10年3月11日山梨県東山梨郡大和村田野の地において武運つたなく果て清和天皇を祖として新羅三郎義光以来約500年… 続きを読む 内藤昌豊陣地(内藤修理亮昌豊の墓、横田備中守綱松の墓)
信玄塚
2013年07月07日 大塚 天正3(1575)年5月、戦いが終って、出沢の小屋久保に避難していた里人らは、帰ると累々と横たわる屍体の埋葬にあたった。この地に二つの塚があり、大塚は武田軍の、小塚は連合軍の戦没者葬ったもの… 続きを読む 信玄塚
小幡上総介信貞の墓
2013年07月06日 金子藷山の『藷山随筆』に、墓は「新間東弾正山中に古塚あり是なり」とある。小幡信貞は上野国甘楽郡国峰城主憲重の子6人兄弟の長男であり、連吾川や馬防柵前で奮戦討死した。設楽原をまもる会は、平成9年3月… 続きを読む 小幡上総介信貞の墓
山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
2014年08月16日 信玄以来の宿老山県昌景は54歳の時であり、家康陣に九度に及ぶ攻撃をして銃弾を受け討死し、山県の被官志村又右衛門が走り寄り、主人の首級を切り落とし、遺体はくれぐれも供養をお願いする旨の書状と、短刀小… 続きを読む 山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)
原隼人佐昌胤之碑
2013年07月07日 原隼人佐昌胤は、武田譜代の重臣、代々陣場奉行の要職を務めていた。陣場奉行は合戦場において地形を見定め、味方が有利に戦える場所を選定し、陣立ての資料を作成するのが役目である。昌胤は戦いでは内藤隊に属… 続きを読む 原隼人佐昌胤之碑
設楽原歴史資料館
2003年10月12日 設楽原史跡めぐりのポイント設楽原・長篠の史跡めぐりをする際の拠点及び情報収集の場としてまずこの設楽原歴史資料館に寄ることをお勧めします。新城市役所の方にも寄らせていただきましたが、文化財等に関する… 続きを読む 設楽原歴史資料館