2014年08月15日 勝頼はせきたてられて第一線から離脱して橋詰まで来たが、疲れた馬は動かない。追手は迫ってくる。このとき旗本の中でも剛の者笠井肥後守満秀は自分の馬をすすめたが、勝頼は乗ろうとしない。追撃は急である。寸… 続きを読む 笠井肥後守満秀の墓
史跡一覧
猿橋
2014年08月15日
滝川助義の墓
2012年05月04日 滝川助義の墓設楽原の合戦においては、織田信長麾下瀧川一益の旗本として左翼最前線で奮戦。また澤の尻の殿戦に於いては武田方笠井肥後守を討取り、信長公より感状、賜盃、銘照重の太刀を拝領するなど抜群の戦功… 続きを読む 滝川助義の墓
滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)
2014年08月15日 橋詰さんばし跡 わ「わが主君の身がわりとげし笠井肥後」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 天正3年5月21日長篠の役・設楽原の合戦は武田方に利なく日が西に傾くにつれ武田方は殿戦へと押されてい… 続きを読む 滝川源右衛門助義・笠井肥後守満秀相討の地・橋詰さんばし跡(鵜の首)
小屋久保
2006年05月05日 む「村人はいくさをさけて小屋久保」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、織田・徳川軍が設楽原に進出してきた際、設楽原の住民には5人組でまとまって… 続きを読む 小屋久保
馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓)
2014年08月15日 馬場美濃守信房之碑 馬場信房戦死之地から少し南に行ったところに馬場美濃守信房之碑があります。ここには馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓と書かれた看板があります。また、いろはがるたの看板もあり、「… 続きを読む 馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓)
橋詰殿戦場
2014年08月15日 武田軍総崩れとなり、殿(しんがり)をつとめた馬場信房らは、勝頼が落ち延びていく姿を確認してこの地で最後の戦いを行った。 2003年10月12日 武田軍総崩れとなり、殿(しんがり)をつとめた馬場信房… 続きを読む 橋詰殿戦場
馬場美濃守討死之地
2014年08月15日 緒巻桜馬場美濃守は当地に於いて主君勝頼を見送った後、この緒巻桜の下にて首を与えたという。道標「ふぢう道」は対岸より設楽原決戦におもむく武田軍がこの道を通り、出沢、浅谷を経て行った道であることを示す… 続きを読む 馬場美濃守討死之地
信長賞詞地(コロミツ坂)
2014年08月15日 ま「守りぬく城主の貞昌二十一」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) かるたでつづる設楽原古戦場によれば、長篠・設楽原合戦が終わった後、有海のコロミチ(コロミツ)坂において、長篠城を… 続きを読む 信長賞詞地(コロミツ坂)
伝武田諸将訣盃ノ池
2006年05月06日 ご夫人がやかんの水を冷しに来ていたのでお話を聞くことができました。伝武田諸将訣盃ノ池とは、設楽原での決戦の前に武田方の武将である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、土屋昌次の4人が最後の盃を交わしたとこ… 続きを読む 伝武田諸将訣盃ノ池
武田勝頼戦地本陣跡
2003年10月12日 天正3(1575)年5月、武田勝頼は織田、徳川連合軍との決戦を前に長篠の医王寺で軍議を開いた。多くの忠臣は決戦を回避すべしと進言したが、勝頼は聞き入れず寒狭川を渡ってこの清井田へ進撃し、ここを戦地… 続きを読む 武田勝頼戦地本陣跡
武田諸将訣盃ノ跡
2004年12月11日 前回訪れたときは、設楽原歴史資料館で聞いた話ではこの武田諸将訣盃之跡には清水が流れているということだったのですが、下の写真の看板のところから少し入ったところまで行ってみたのですが清水らしきものを見… 続きを読む 武田諸将訣盃ノ跡
大久保兄弟陣地
2014年08月16日 せ「先陣の大久保兄弟うって出る」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 連吾川の下流地域は、両岸が切り立った崖のようになっていて、ちょっとした谷間を形作り、その間を蛇行するように川が流れている。… 続きを読む 大久保兄弟陣地
高坂源五郎昌澄之碑
2014年08月16日 昌澄は、武田の四天王といわれた高坂弾正忠昌宣の子として、山梨県甲府に生まれ設楽原の戦いには、25才の若さで兵2千を率いる隊将として戦った。昌澄は始め長篠城を取り囲む城監視隊長として戦っていたが、武… 続きを読む 高坂源五郎昌澄之碑
広瀬の渡し(鳥居勝商上陸地)
2014年08月16日 き「奇襲隊広瀬をわたりで鳶ヶ巣へ」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 広瀬の渡は、酒井忠次率いる軍隊が鳶ヶ巣砦を奇襲すべく進む途中、この広瀬付近で豊川を渡って行ったそうです。また鳥居強右衛門… 続きを読む 広瀬の渡し(鳥居勝商上陸地)
勝楽寺前激戦地
2014年08月16日 京「京めざす武田の雄図今悲し」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 2003年10月12日 京「京めざす武田の雄図今悲し」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)
傳山本勘蔵信供之墓
2014年08月16日 か「勘蔵はこの地に死して名を残す」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 山本信供の墓信供は武田24将の一人で、武田の軍師といわれた山本勘介晴幸の子として弘治2(1556)年、山梨県高根で生まれ… 続きを読む 傳山本勘蔵信供之墓
勝楽寺
2014年08月16日 本堂 当山は大本山に永平寺を仰ぐ六百余年の曹洞禅寺で、永平寺十四世勅賜直指円性禅師が幼少から御修行なされた名刹で、その因縁によって「出世観音様」をお祀している。三世玄賀和尚は、名僧の誉高く家康の遠… 続きを読む 勝楽寺
雁望山登り口
2006年05月05日 す「強右衛門のろしをあげし雁峰山」(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より) 雁望山は鳥居強右衛門が狼煙をあげた山です。上の俳句の設楽原古戦場いろはかるた看板資料は丸山砦の北側と、羽柴秀… 続きを読む 雁望山登り口
上州沼田産矢立硯発見地
2014年08月16日 上州産「矢立硯」の発見場所昭和39年春、この看板の位置より60メートル程南の下流に堰堤が造られたが、その工事中に青みがかった小さな硯が発見された。縦116ミリ、横29ミリ、厚さ12ミリの細長い形で… 続きを読む 上州沼田産矢立硯発見地