2014年08月15日 史跡 蟻塚<所在地>鳳来町長篠字広面30番地<由来>長篠の戦いの戦死者を葬った所で、ここから蟻の大群が出て村人を苦しめたので、碑を建てて供養し、蟻を封じたと伝えられている。<大き… 続きを読む 蟻塚
史跡一覧
馬場美濃守信房の墓
2014年08月15日 所在地:鳳来町長篠字西野々51番地の1由 来:天正3(1575)年長篠の戦いに敗れて退却する武田勝頼の最後尾を守りぬいて戦死した、馬場美濃守信房の首を埋めた所といわれている。(看板資料より) 長篠… 続きを読む 馬場美濃守信房の墓
姥ヶ懐(武田浪人組陣地、三枝兄弟の墓)
2014年08月15日 姥ヶ懐の地名は、日だまりの、姥の懐のように穏やかで暖かい地形を呼ぶとされ、この地特有の言葉ではないようである。このような所、低くて展望も十分でない。しかも上に登れば、いかにも砦にふさわしい鷹の松が… 続きを読む 姥ヶ懐(武田浪人組陣地、三枝兄弟の墓)
君が臥床(和田兵部陣地)
2012年05月04日 飯田線長篠城駅を東に向かいすぐに右に曲がって川を渡り左折した後、更に橋を渡ってすぐに右折して町道大栗線を南下。すぐに左に上っていく道があるのでそこを進んで行ったところで人がいたので君が臥所の場所を… 続きを読む 君が臥床(和田兵部陣地)
鳶ヶ巣山陣地
2014年08月15日 5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶ヶ巣砦方面の火の手と銃声に驚き本… 続きを読む 鳶ヶ巣山陣地
天神山陣地
2014年08月15日 本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11(1698)年10月、一色氏の所領替えにより、下総国木之崎村より現在地に遷営された。本殿は全体的に形姿がよく整い、細部… 続きを読む 天神山陣地
医王寺
2014年08月15日 医王寺と武田勝頼本陣跡長篠山医王寺は永正11(1514)年に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし、克補契嶽大和尚によって開山され、現在7つの末寺がある。天正3(1575)年の長篠の戦の時、武田勝頼… 続きを読む 医王寺
長篠城
2013年07月06日 長篠城は豊川の上流、寒狭川(滝川)と大野川(三輪川)とが合流する地点の断崖絶壁の上にある。城址は現在愛知県南設楽郡鳳来町字長篠に存し東西およそ327メートル、南北約254メートルある。城の機構は「… 続きを読む 長篠城
法性寺
2014年03月29日 信玄公が撃たれた場所1573(元亀4)年野田城を武田軍が攻めた折、信玄は毎晩城内から流れてくる松村芳休の吹く見事な笛の音をこの場で聞き惚れていた。そこを、鳥居半四郎という鉄砲の名手が城内から発砲。… 続きを読む 法性寺
野田城
2014年03月29日 この城は、永正5(1508)年に築城されたと伝えられる。菅沼定則、菅沼定村、菅沼定盈等がここを居城とした。城郭は南北に長く、北より三の丸、二の丸、本丸と続くいわゆる連鎖式の山城である。東西両側は谷… 続きを読む 野田城
鳴子網架設地
2012年05月04日 鳥居強右衛門と鈴木金七は5月14日の夜、城の西、岩石を伝わって滝川へ入った。武田勢は幾重にも取り巻き、瀬ごとに番人を置いた。大野川(宇連川)・滝川(豊川)に鳴子をかけて置いたので、通り様がない。然… 続きを読む 鳴子網架設地
鳥居強右衛門磔死之碑
2014年08月15日 天正3(1575)年5月1日、甲斐の武田勝頼は1万5千人の軍勢を率いて長篠城を取り囲んだ。奥平貞昌を城主に、わずか5百人の兵が長篠城に籠城した。城の兵は、武田軍の猛攻をよく防いだが、落城寸前となっ… 続きを読む 鳥居強右衛門磔死之碑
新昌寺
2014年08月15日 由緒・山号には別に「鳥居山」もある。本尊は釈迦牟尼仏。・創建は天文8(1539)年長篠医王寺4世月傳太隋大和尚による。創建当時は「喜船庵」と称された。・天正3(1575)年の長篠合戦では、「喜船庵… 続きを読む 新昌寺
鳥居強右衛門の碑
2014年08月15日 2012年05月04日 鳥居強右衛門勝商の碑天正3年5月、武田軍に包囲された長篠城を抜け、岡崎の家康に救援を求めての帰路この地で捕らわれ磔にされた。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 鳥居強右衛門… 続きを読む 鳥居強右衛門の碑
和気善兵衛宗勝之墓
2014年08月15日 和気善兵衛宗勝の墓久間山砦を守備中、酒井忠次の鳶ヶ巣奇襲隊に背後を衝かれ、有海で討死した。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 稲場は飯田線鳥居駅と新昌寺の裏手を結ぶ道路の南一帯の地である。その稲場… 続きを読む 和気善兵衛宗勝之墓
高坂又八郎助宣の墓
2014年08月15日 「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男… 続きを読む 高坂又八郎助宣の墓
横田十郎兵衛康景之碑
2014年08月15日 設楽原決戦では勝頼本営に配置さた足軽大将で騎馬30騎(足軽100人)。横田備中守の嗣。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 新昌寺前から北へ300メートル。道路から右に10メートル入った民家の庭先に… 続きを読む 横田十郎兵衛康景之碑
小山田五郎兵衛昌晟之墓
2014年08月15日 小山田五郎兵衛昌晟は、武田本隊が設楽原出撃後の長篠城監視隊。以前は船戸18の畑で、五輪塔が横にあった。(戦国の陣没将士墓苑記載文章より) 天正3年5月20日、武田勝頼が設楽原へ進撃した道筋を『設楽… 続きを読む 小山田五郎兵衛昌晟之墓
松平伊忠戦死之地
2014年08月15日 「松平伊忠戦死之地」の碑は、昭和50年5月に、「三州長篠合戦記」により、有海字作神の257号道路の傍に建立された。戦勝した連合軍の中で、城主級武将で戦死したのは松平伊忠ただ一人である。家系を見ると… 続きを読む 松平伊忠戦死之地
山本信供戦死之地
2014年08月15日 平成7年9月、新城市大海字下林の旧伊那街道右道端に、設楽原をまもる会による高さ130センチ、幅20センチの「山本信供戦死之地」の石標が建ち、この地の奥に高さ76センチ、幅20センチの「山本勘介信供… 続きを読む 山本信供戦死之地