2014年09月28日

板垣家は、甲斐源氏・武田信義の流れをくむ武田家の名門です。信方は、武田信虎・信玄の二代に仕えた武田家の重臣であるとともに、傅役として若き日の信玄を支えてきたことから、信玄から大きな信頼を得ていたといわれています。
天文11(1542)年の諏訪攻略については副将として采配をふるい、その後、諏訪郡代となり信玄の信濃攻めの中心的な役割を果たしました。
天文17(1548)年旧暦2月、北信濃の雄、村上義清との上田原合戦が下之条から上田原付近で行われ、特に浦野川、産川を境にして激戦が展開されました。
この戦いで信方は下之条付近にて壮烈な討ち死をとげました。信方は、煙草をたいへん好んだという逸話から、今でも墓前に煙草を供える人が絶えません。
(看板資料より)
板垣信方の墓

武田一族の信方は、信虎・信玄の父子二代に仕えた重臣(家老)である。始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元(1489)年に生まれた。青年信玄のよき補佐役となり、若き信玄にとっては頼りがいのある武将であったといわれる。
天文17(1548)年2月、信濃の雄、村上義清との上田原合戦が下之条から上田原付近で行われ、浦野川や産川を境として激戦が展開された。この戦いで信方は下之条付近に於いて、村上軍と戦い壮烈な討ち死を遂げた。
信方は愛煙家であったと言い伝えられ、今もこの墓を訪れる人々によりタバコが墓に供えられている。
(看板資料より)
2009年10月04日

板垣家は、甲斐源氏・武田信義の流れをくむ武田家の名門です。信方は、武田信虎・信玄の二代に仕えた武田家の重臣であるとともに、傅役として若き日の信玄を支えてきたことから、信玄から大きな信頼を得ていたといわれています。
天文11(1542)年の諏訪攻略については副将として采配をふるい、その後、諏訪郡代となり信玄の信濃攻めの中心的な役割を果たしました。
天文17(1548)年旧暦2月、北信濃の雄、村上義清との上田原合戦が下之条から上田原付近で行われ、特に浦野川、産川を境にして激戦が展開されました。
この戦いで信方は下之条付近にて壮烈な討ち死をとげました。信方は、煙草をたいへん好んだという逸話から、今でも墓前に煙草を供える人が絶えません。
(看板資料より)

武田一族の信方は、信虎・信玄の父子二代に仕えた重臣(家老)である。始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元(1489)年に生まれた。青年信玄のよき補佐役となり、若き信玄にとっては頼りがいのある武将であったといわれる。
天文17(1548)年2月、信濃の雄、村上義清との上田原合戦が下之条から上田原付近で行われ、浦野川や産川を境として激戦が展開された。この戦いで信方は下之条付近に於いて、村上軍と戦い壮烈な討ち死を遂げた。
信方は愛煙家であったと言い伝えられ、今もこの墓を訪れる人々によりタバコが墓に供えられている。
(看板資料より)

以前来たことがあったのですが、場所が分からなくなってしまい近所にいたご婦人に聞いてみると「板垣さん」は…といって丁寧に場所を教えてくれました。
地元では板垣さんと呼ばれているようです。今回同行した私の弟がタバコを持っていたのでタバコに火をつけてお供えしました。
大河ドラマ「風林火山」放映後でしたが、板垣信方の墓は以前と全く同じでしたが、手前に立派な案内板が建っていました。
2003年08月15日

武田一族の信方は、信虎・信玄の父子二代に仕えた重臣(家老)である。始祖は甲斐源氏の板垣三郎兼信で延徳元(1489)年に生まれた。青年信玄のよき補佐役となり、若き信玄にとっては頼りがいのある武将であったといわれる。
天文11(1542)年6月、信玄の諏訪攻略の副将になって采配をふるい、諏訪郡代になる。天文17(1548)年2月信濃の雄、村上義清との上田原合戦が下之条から上田原付近で行われ、浦野川や産川を境として激戦が展開された。この戦いで信方は下之条付近において村上軍と戦い壮烈な討ち死を遂げた。
信方は愛煙家であったと言い伝えられ、今もこの墓を訪れる人々によりタバコが墓に供えられている。
(看板資料より)
板垣信方の墓
