信玄築石

2016年11月28日 昭和初期まで、中道往還が未だ徒歩の旅人や村人たちの通行に利用されていた頃は、此処に信玄築石と墨書した木の標柱が建っていましたが、年月の経過と共に朽ち果ててしまいました。この山裾を中道往還が通過して… 続きを読む 信玄築石

本栖城

2016年11月28日 烏帽子岳より青木ヶ原樹海にせり出した標高約1056mが城山山頂で、狭くて細長い山頂部分に数個の屋根切りを配し、自然の地形を利用し、郭を設け、防備を固めた中世山城の形態が残っています。竪堀には、地山… 続きを読む 本栖城

渡辺氏屋敷跡

2012年11月25日 本栖の城山から南方へおよそ1km、本栖湖畔に近いやや小高い所に屋敷跡が存在している。『甲斐国志』には「宅地ハ村並ニアリ、凡ソ方一町許リ」と見え、渡辺囚獄佑の屋敷跡と伝えている。現在は主に畑と山林で… 続きを読む 渡辺氏屋敷跡

江岸寺

2012年11月25日 曹洞宗の寺院で、甲府市上曾根町に所在する龍華院の末寺である。寺号の龍海山は竜ヶ岳に関係し、江岸寺は湖岸に創築されたことに由来するといわれる。伝承によると、中世・戦国時代に甲駿の国境防備のため、江岸… 続きを読む 江岸寺

本栖石塁

2012年11月25日 本栖の城山周辺樹海のなか、上九一色中学校入口付近から城山の北側までの山裾に、いくつかの溶岩の石積みが残っている。樹海内を通ずる道路によって一部破壊された部分もあるが、往時はその間を中道往還が通って… 続きを読む 本栖石塁

中道往還

2016年11月28日 中道往還は、古代から開かれていたといわれ、甲斐と駿河を結ぶ三つの街道のうち若彦路、富士川街道の間を通る道であることから「中道」と呼ばれるようになったと『甲斐国志』に書かれている。弥生時代から古墳時… 続きを読む 中道往還

勝山城

2014年09月14日 東照権現 谷村城の要害城(非常の場合たてこもる城)として築城されたこの勝山城址には、現在なお、曲輪・堀・石垣・土塁など、多くの遺構が認められる。曲輪は山頂の平坦地(本丸跡)を中心にして、北・東・南… 続きを読む 勝山城

長生寺

2014年09月14日 長生寺の中雀門 長生寺は、寺記によれば、文明元(1469)年8月9日甲斐国守護武田信昌により寺領20石、山林境内1万5千坪が寄進され創立。開山は鷹岳宗俊禅師である。また、永正9(1512)年中興開… 続きを読む 長生寺

用津院

2014年09月14日 文明6(1474)年、開山鷹岳宗俊によって創建された向富山用津院の開基は、小山田耕雲と伝わる。これは森嶋本『甲斐国志草稿』の記述と一致する。実際、「耕雲」という人物が、用津院開山の時代に寺領寄進を… 続きを読む 用津院

中津森館跡

2004年12月26日 桂林寺にて中津森館の場所を尋ねたところ、桂林寺の駐車場から見渡して鉄塔の先のところがちょうど中津森館跡だったといわれているのだそうです。甲斐国志によれば「用津院の東にあり、里人は今も御屋敷と呼ぶ、… 続きを読む 中津森館跡

諏訪番所跡

2009年12月29日 一、名称諏訪番所(甲斐二四関の一)、境川番所・境川口留番所とも呼ぶ。一、所在地上野原町諏訪木のはけ20番地・宝永4(1707)年諏訪神社東より番所坂上に移転一、土地番所屋敷 一畝二十八歩 高二斗三… 続きを読む 諏訪番所跡

上野原城

2009年12月29日 この城址に最初、館を築いたのは古郡氏です。古郡氏は小野篁の系統である武蔵七統の一統で、八王子の横山に本拠を構えた横山統の横山権守隆兼の三男三郎左ヱ門忠重が、康治年中に甲斐国都留郡古郡郷の別当大夫と… 続きを読む 上野原城

長峰砦

2009年12月29日 発掘調査された長峰砦跡長峰砦跡は、山梨県の東端部、上野原町大椚地区に所在した、やや小規模な中世の山城跡です。この付近は戦国時代の終わり頃、甲斐と武蔵・相模とが国境を接するところで、当時こうした国境… 続きを読む 長峰砦

宝林寺

2014年09月14日 笠原夫人の墓 五輪塔ノ由来 武田信玄合戦記天文16(1547)年、武田ノ攻ニ屈シタ信州志賀城主笠原新三郎ハ従ハザルヲ得ナカッタ其ノ夫人21才賢才ニシテ美貌ノ誉高ク武田方ノ噂ニ登ッタ。小山田殿、夫人… 続きを読む 宝林寺