2015年02月07日 徳川家康が浜松城を築く時に、玄黙に門をつくって玄黙口と称しました。三方ヶ原の合戦で敗れた家康は、犀ケ崖の手前に旗を立てさせ、逃れ来る味方を集めて玄黙口から収容し、自身も夏目次郎左衛門正吉が「我が家… 続きを読む 玄黙口跡
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浜松城
2015年02月07日 天守閣 浜松城の沿革浜松城は徳川家康が築いたものです。家康は永禄11年(1568年)に三河から遠江に入り、各地を転戦して、引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、浜松城の築城に着手しました。元亀元年… 続きを読む 浜松城
引馬城
2015年02月07日 徳川家康は永禄12年5月掛川城に籠もる今川氏真を降伏させ、氏真は北条氏を頼って伊豆の戸倉に入り、ここに戦国大名としての今川氏は実質上滅亡することになったが、同時にこのことは、遠江が家康の掌中に入っ… 続きを読む 引馬城
浜松八幡宮
2015年02月07日 元亀3(1572)年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神… 続きを読む 浜松八幡宮
普傳院
2015年02月07日 本堂 千体堂 戦国時代、天竜川沿いの戦いで討ち死にした徳川、武田双方の将兵を供養するため、村人の浄財で千体の木彫仏を安置した千体堂を姫街道沿いに建立したと伝えられている。現在、その千体堂は普傳院に… 続きを読む 普傳院
西泉寺
2015年02月07日 西泉寺は、聖観世音菩薩を本尊とする曹洞宗の寺である。境内の観音堂は、徳川家康が天竜川の東で武田軍との戦いに敗れ、池田村の善右衛門の舟で天竜川を渡り、半場新田(川越島)に着き、ここから西泉寺に向かい… 続きを読む 西泉寺
妙恩寺
2015年02月07日 妙恩寺由来日蓮宗長光寺妙恩寺は鎌倉時代第95代花園天皇の応長元(1311)年6月日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を御開山とし、金原法橋左近将監を開基檀越として出来た遠州最初の法ヶ道場である。以来、今日迄… 続きを読む 妙恩寺
常楽寺
2015年02月07日 家康と阿弥陀橋今はむかし。曳馬の村を流れる川に、阿弥陀橋という橋がかかっていました。今はその橋はみるべくもありませんが、昔あった阿弥陀橋には次のような話が伝えられています。時は元亀3年12月、徳川… 続きを読む 常楽寺
金八崖
2015年02月07日 三方原合戦の時、犀ヶ崖の裏に隠れて話題に上がらなかった金八崖にも、次のような情景が語り伝えられている。頼みの綱の織田の援軍は敗散し、家康軍は武田軍の攻撃を前後から受け進退きわまっていた。この時槍の… 続きを読む 金八崖
轡淵
2015年02月07日 花川の水源地である轡淵は、かつて滝壺のように深くえぐられた池になっていた。ある時この池には化け物が住み着いているという噂が広がった。これを聞いた1人の若者が池に潜ってみるとキラリと光るものがあり、… 続きを読む 轡淵
本乗寺(精鎮塚の碑)
2015年02月07日 精鎮塚の碑 この碑は、三方原の戦いの戦死者をまつるため建てられたといわれている。昔の建立場所は、姫街道沿いにある權七商店の西北2百メートルほどの所にあったが大正の中頃、本乗寺四代目住職、青島淳雄師… 続きを読む 本乗寺(精鎮塚の碑)
龍泉寺
2015年02月07日 元亀3(1572)年に、家康公は三方原の戦いに敗れ逃げ帰る途中、身を隠した阿弥陀堂で夢枕に阿弥陀如来が現れ、布橋の戦略を授かった。これにより浜松城は落城を免れ、家康公出世の先駆けとなったと伝えられ… 続きを読む 龍泉寺
宗源院
2015年02月07日 宗源院は維新の頃まで7万坪に及ぶ広大な寺域を擁していたが、明治政府に上地して縮小をみるに至った。開創は在天雲和尚。応永23(1416)年のことだといわれる。開基は吉良氏である。くだって戦国時代、駿… 続きを読む 宗源院
普済寺
2015年02月07日 山号広沢山、曹洞宗。15世紀の初め寒巌義尹が開山、その後肥後国(熊本県)大慈寺から来た華蔵義曇りが寒巌禅師の遺志を継ぎ、東海の禅堂としてこの地に普済寺を建立した。教派は13派(460ヵ寺)を数え、… 続きを読む 普済寺
平手神社
2015年02月07日 織田信長の重臣の一人であった平手汎秀(監物)の墓碑が稲葉山にある。ここが平手監物汎秀の終焉地といわれ彼を祀る祠がある。彼の父は織田信秀の老臣平手政秀である。若き信長の補佐役となり、主人の放埓を死を… 続きを読む 平手神社
鎧掛松
2015年02月07日 浜松市役所西駐車場、南西の隅に「家康鎧掛松」がある。もとは浜松城内庖丁堀のそばにあった。元亀3年徳川家康が三方原合戦より帰城し、この松の木の下に憩い、着ていた鎧を脱いで枝に掛けた、という由緒から「… 続きを読む 鎧掛松
大熊備前守屋敷跡
2014年12月28日 元亀2(1571)年武田信玄は、徳川家康の将、松平左近真乗の守っていた山崎の砦を攻め落とし、砦を修築して小山城と命名し、大熊備前守父子を城代とした。ここは城代の屋敷跡である。小山城より約6町(約6… 続きを読む 大熊備前守屋敷跡
小山城
2014年12月28日 ここは永禄11(1568)年末、武田氏によって山崎の砦が築かれたところで、武田・徳川の駿遠分割協定に基づき、家康は家臣松平真乗に大井川下流を支配下に納めようとして砦を攻撃させた。元亀2(1571)… 続きを読む 小山城
朝比奈城
2014年12月28日 朝比奈城址は、岡部町役場から北西へ朝比奈川に沿って約5㎞北上した朝比奈郷の中心殿(との)部落背後の山頂にある。朝比奈郷は駿河北部山間地を東西に走る間道の中継地として早くから開けた所で、すでに弘安7… 続きを読む 朝比奈城
花倉城
2014年12月28日 本丸 花倉城は今川氏3代目範国が足利将軍尊氏の命を受けて駿遠へ進出し、その子範氏が文和2年(1353)花倉に居館を構え背後の山上に詰城を築いたものと伝えられています。その後、氏家、泰範、範政と3代… 続きを読む 花倉城
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