2014年03月09日 寛永11(1634)年には三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。元禄16(1703)年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失… 続きを読む 小田原城
カテゴリー: 神奈川県
田代城
2014年01月04日 田代城は室町時代の山城で、自然の地形をそのまま要害とした武士の居館であった。築城の年月は不詳。城域は23,300平方メートルほどの広さをもち、南の方を表口としていた。城主は小田原北條氏の幕下にあっ… 続きを読む 田代城
胴塚
2014年01月04日 胴塚永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここか… 続きを読む 胴塚
首塚
2014年01月04日 首塚不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て… 続きを読む 首塚
小山田八左衛門行村墓
2014年01月04日 小山田氏は秩父氏の一流で、発祥地は小山田荘(町田市小山田)である。その祖父有重は、はじめ平家に仕え、平家西国落のとき脱出して東国に帰り源頼朝に属して繁栄したが、頼朝没後その家人の対立激しく、建保元… 続きを読む 小山田八左衛門行村墓
法印の首塚
2014年01月04日 戦国争乱の世、上洛し、天下に覇をなさんとの野望に燃える甲斐の武田信玄は、諸将に大軍を引きつれ小田原に北条氏を攻めた後、相模川沿いに北上し、三増峠(愛川町と津久井町との境)を突破せんとする時、北条方… 続きを読む 法印の首塚
バアバア宮
2014年01月04日 都留の城主、小山田信茂の一族、小山田六左エ門は武田滅亡の後、大月市岩殿城より小田原北条氏をたより落ちて行きました。その途上焼山登山口、青野原で六左エ門は討たれました。今でもその場所には河原石に甲州… 続きを読む バアバア宮
ジジイ宮
2014年01月04日 折花姫ジジイ宮の由来についてここから袖平山に連なる尾根を可愛尾根と言います。(カワイ尾根)その昔、村里の言い伝えによると武田勝頼が滅亡し、武田24将のひとり都留の城主小山田信茂の一族のひとり小山田… 続きを読む ジジイ宮
折花神社
2014年01月04日 北丹沢、神ノ川流域「折花神社」の由来折花神社には幾つかのいわれがあります。そのひとつは、折花姫の父は武田勝頼の家臣で小山田六右ヱ門といい、武田家滅亡と共に、この地へ逃れたものの敵の手により悲しい最… 続きを読む 折花神社
首洗池
2014年01月04日 寸沢嵐首洗池の言い伝え武田信玄は、永禄12年8月総勢2万の軍勢を率いて甲府を出発。信州佐久を経て碓氷峠を越え、長躯して関東諸城を攻略し、遂に北条氏康の居城小田原城を攻撃して目的を達した。甲州への帰… 続きを読む 首洗池
浅利明神
2014年01月04日 甲斐源氏の後裔、浅利右馬助信種は武田方の侍大将で、24将の1人にかぞえられた勇武の人と伝えられています。史書によると、永禄12(1569)年10月の三増合戦に時、信種は武田軍の左翼にあって奮戦して… 続きを読む 浅利明神
三増峠
2014年01月04日 三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越え、または三増通りの名がある。中世の頃は、信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉に向う古街道であった。永禄12(1569)年北条・武田両軍が戦っ… 続きを読む 三増峠
志田峠
2014年01月04日 志田峠志田峠は、志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては切通し越え、志田峠越えの名があった。ここは永禄12(1569)年… 続きを読む 志田峠
旗立て松
2014年01月04日 旗立て松の由来永禄12(1569)年10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。北から西へ連なる三増の山並みを越… 続きを読む 旗立て松
三増合戦場
2014年01月04日 三増合戦のあらまし永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦… 続きを読む 三増合戦場
早雲寺
2004年11月13日 早雲寺は、大永元(1521)年、北条早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。この寺には北條文化の香りを伝える数多く… 続きを読む 早雲寺
北条氏政・氏照の墓所
2004年11月13日 小田原市指定史跡 北条氏政・氏照の墓所北条氏政は、北条氏四代の領主。氏照は氏政の弟で八王子城など5つの支城の城主でした。天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領… 続きを読む 北条氏政・氏照の墓所
津久井城
2004年02月15日 三増峠の合戦の際に信玄が小幡尾張の軍勢で津久井城を抑え、その後の合戦を有利に展開したのだそうです。津久井湖畔の「県立津久井湖城山公園花の苑地」に車を止めてすぐ近くの登山道入口から登り始めました。3… 続きを読む 津久井城
米倉寺
2003年11月23日 井宝山米倉寺と号し、曹洞宗に属す。天文元(1532)年の開創で、開山は天宥宗高大和尚(秦野市堀山下の米倉一族の菩提寺、蔵林寺の二世)。由緒によれば往古この地に用国院と呼ぶ寺院があり、伊豆の普門院を… 続きを読む 米倉寺
馬場跡・日枝神社・花籠の台
2003年11月23日 馬場跡その昔は鉄砲馬場であったが、戦前は廻り馬場となり、当時は草競馬が年に数回行われ賑やかだったといわれている。また、この付近には「五十塚」と「六十塚」という地名があり永禄9(1566)年小田原攻… 続きを読む 馬場跡・日枝神社・花籠の台
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