獅子吼城

2013年10月13日 別名「江草城」。地域では、「城山」と呼んでいる中世の山城。山頂の広くて平坦な主郭(本丸)を中心に斜面には、平らな石を積み上げた石垣と、それらを用いて区画した多数の曲輪。斜面を縦断する縦堀りが配置さ… 続きを読む 獅子吼城

正覚寺

2013年10月13日 山門 天保年間建立。間口三間半奥行三間の楼門作りにて楼上に釈迦王尊、十六羅漢、五百羅漢を安置する。(看板資料より) 本堂 伽藍の中心的建物にして明和年間に建立。間口拾間、奥行九間半。本尊虚空蔵菩薩… 続きを読む 正覚寺

平賀源心の墓

2013年10月13日 平賀源心と上木戸武田信玄の時代、若神子には陣所がおかれ信州方面への出陣のおり、陣立てが行われていた。江戸時代には宿場として栄えた。宿場の南と北には東西に石塁が築かれていて上木戸は「上の棒道」と呼ば… 続きを読む 平賀源心の墓

わに塚

2017年04月08日 わに塚の桜 わに塚甲斐国志に「芝地十五間に十間、塚の形神前にかかる鰐口に似たり。後の人因りて名付けたるか。古墳なることを知りぬべし」とあり、土地の口碑によれば日本武尊の王子武田王が、諏訪神社の南西… 続きを読む わに塚

八幡神社

2014年03月21日 甘利八幡と称し、甘利氏代々の氏神といわれる。:「甲斐国志」甘利庄は、甲斐源氏武田信義が武田に居館をおいてからその勢力下に入り、その子一条忠頼についてその子行忠に伝えた。行忠は甘利庄に居館を構え甘利… 続きを読む 八幡神社

日ノ出城

2008年01月03日 日ノ出城は、鷹巣(たかのす)城または日之城とも呼ばれ、西部は塩川の断崖に臨み、要害を誇る。この地は、室町時代の初期応永・永享(1394~1433)のころ、武田右馬助信長に日一揆が属し、武田氏再興の… 続きを読む 日ノ出城

長清寺

2008年01月03日 山梨県の武田氏伝説によると、福性院の山中に小笠原長清の墓らしいものがあるとのことでしたので福性院に立ち寄りました。しかし残念ながら福性院には誰もいないようで断念。しかし地図を見てみると、近くに長清… 続きを読む 長清寺

大輪寺

2013年09月07日 大輪寺日蓮宗池上本門寺派甘利山大輪寺は、中世武田時代の甘利郷領主甘利氏の菩提寺である。大輪寺の開基は甘利左衛門尉昌忠、開山は慶受院日国、本尊は十界勧請大曼陀羅である。寺の境内は甘利氏の居館の跡で、… 続きを読む 大輪寺

常光寺

2013年09月07日 この寺は、初期武川衆の一人、青木十郎常光が開基し、青木氏の武威が隆盛ならんことを念じて武隆山と号した。はじめは真言宗であったが、後に常光七世の子孫尾張守満懸(信定ともいう)が、雲鷹玄俊(正覚寺開山… 続きを読む 常光寺

恩昌寺

2013年09月07日 慈眼山恩昌寺の由緒は、寺記に「開基武田勝頼公息女天正9年辛巳年開闢」とあり、甲斐国志には「天正九年武田勝頼ノ女草創ス法諡紅暎林葉大姉ト云フ」また、「紅暎林葉大姉、逸見中条村上野恩昌寺ニ碑アリ勝頼ノ… 続きを読む 恩昌寺

十六石

2004年12月30日 武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文12、3年頃年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ツ谷に治水工事を行った。その堤防の根固めに並べ据えた巨大… 続きを読む 十六石

宗泉院

2013年09月07日 本堂 山本勘助の供養塔 2004年12月30日 山本勘助の供養塔 山本勘助の墓と言われているところが韮崎にあるとのことでしたので来てみました。最初に宇波刀神社というところに行ったのですがそれらしい… 続きを読む 宗泉院

光明寺

2013年09月07日 開基木曽千太郎公縁起武田信玄公、三女真理姫が木曽の城主、木曽義昌公に嫁したことにより両家は姻戚にあった。天正10(1582)年武田勝頼公が、新府居城の際、義昌公は嫡子千太郎(13歳)と老母(70歳… 続きを読む 光明寺

能見城

2004年04月24日 穴山駅から南に向ってすぐに能見城と書かれた看板が山の斜面にあり、そこから更に少し南にいったところから左折して山を登っていく道があります。能見城入口と書かれた小さな看板があるので分かると思います。少… 続きを読む 能見城

満福寺

2013年09月07日 武田の祖・新羅三郎義光からたどること11代目、当時の甲斐安芸守護武田信武の5男・義武(穴山四郎)が、逸見郷の重要拠点であった「穴山」を領し、地名を姓として「穴山氏」を名乗った。この穴山氏の菩提寺と… 続きを読む 満福寺

更科姫館跡

2013年09月07日 更科姫を偲んで北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。… 続きを読む 更科姫館跡

涙の森

2013年09月07日 武田勝頼は織田軍の追撃に堪がたく、天正10(1582)年3月3日、自ら城に火を放ち家臣小山田信茂の待つ、郡内の岩殿城さして落ちのびて行くときここで赤々と火の手の揚る新府城を眺め、戦国の世のきびしさ… 続きを読む 涙の森